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「川と海から」-082.新山下埋立て地

 

 本牧鼻は突出した高台のため風波の直撃で地層が劣化していた上に根岸湾を回流する海水に洗われ土砂が北方に移動し、長年のあいだに「州乾(州干、秀閑とも書く)の砂嘴」がつくられていた。開港後に土地需要が急増してそれまでの埋立地でも不足になり、山手丘陵の外側十二天までの崖地下の浅瀬に埋立てが計画されたのは自然であた。明治23年の勅令「官有地取扱規則」、内務省訓令「公有水面埋立及使用免許取扱方」で具体的な手順が決められたが、この崖地の上の景勝地が外国人住宅地だったため埋立てにはしばしば苦情があり、実現を拒んでいた。明治32年(1899)の条約改正を目前に利権をねらう実業家や政治家が埋立競願に暗躍し、この認可をめぐって国や政党をまきこむ大きな収賄事件に発展するほどになる(この経過は新山下臨海地区再開発促進協議会編「新山下ものがたり」に詳しい)。混乱の末横浜埋立株式会社が工事認可を取得、大正12年に竣工した97,696坪を横浜市域に編入し新た山下町1~3丁目が生れた。たまたまこの年に大震災が起こるがさら地だったここは罹災者の避難地・収容地、海軍の救援物資の荷揚げ地、救護の根拠地として大いに役立った。

 震災で埋め地の護岸の多くは崩壊したが、復興事業の中で運河、橋梁、道路、土地利用などそれまでの計画に大幅な修正が加えられて昭和の港湾機能を担うレ-ルが敷かれる。一方崖下の部分には罹災者収容の応急住宅が並び、それが同潤会による標準住宅建設につながった。運河をはさんで住宅地域、倉庫地域と区分けされた。昭和57年(1982)には新山下臨海地区再開発促進協議会編による計画が進められ、貯木場の埋立て、接収地の解除と再開発、臨海鉄道の廃止、住宅改良事業などが進み、隣接の「マイカル本牧」地域とあわせてまったく面目を一新した。

 

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