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「川と海から」-137.長浜検疫所

 

 明治12年7月コレラの蔓延を防ぐため検疫停船規則が制定され、流行地域から入港する船舶は検疫所に回航し検査や消毒を受けることが義務づけられた。

 神奈川県は横須賀市長浦に「消毒所」を設置したが軍港拡張のためこれが長浜に移転させた。その後内務省直轄となり横浜海港検疫所長浜措置所となった。当時は風光明媚の地で、この周辺を訪れた与謝野鉄幹は「春の日に来て立つ沙丘ななめにもさはるものなく海に及べり」と詠っている。

 ここで有名なのは野口英世博士だが、検疫所の内務省移管に伴い東京の北里柴三郎の伝染病研究所で図書係をしていた英世はここの検疫官補として赴任してきた。折しも横浜港外に停泊した外国船乗組員から二人のペスト患者を発見した。

 「東京帝国大学卒業」という肩書きだけで天下はわがものという増長慢のはびこる時代に、学歴のない彼一躍世に認められるようになり、明治33年には念願のアメリカ留学を果たした。その後ヘビ毒や梅毒の研究で業績をあげ、ついに学士院恩賜賞を獲得し学士院会員に推挙されるに至った。その後中南米での流行性熱病(黄熱病)の調査中に病原菌に感染しかの地で死亡した。これらの数奇な人生は子供たちの「偉人伝」や教科書にも取りあげられ、貧窮の中で育った身体障害者でありながら世界的学者となったことで日本人の模範像として称揚されるようになった。

 ただ日本人の通弊として偉業を達成した偉人を崇拝するあまり「神様」に祀りあげる傾向があるのは人間性を無視することにつながる危険性があり、いかがなものか。英世が稀代の借金王でしばしば踏み倒し、長浜勤務中も同僚と所管のモ-タ-ボ-トを駆って横浜の遊里に出没したことはよく知られている。これらもあわせてト-タルな人間像として理解した方がより身近な存在となるのではなかろうか。

 井上やすしも書いている‥‥‥私などは「普通の人」に近くなってからの野口英世の方がずっと面白い。いや尊敬できます。たしかに東京時代は遊んだかもしれない。でも遊んだっていいじゃないですか。英世は切れば赤い血が出る人間だった、いや人間以外のなにものでもなかった。だれに「遊ぶな」と咎めることができます? それに彼には遊ぶだけの理由があった(後略)。

 検疫所は明治35年に再び神奈川県の所管に戻り、昭和48年中区の港湾合同庁舎に移り、長浜検疫所はその使命を終えた。跡地は平成9年に「長浜野口記念公園」として整備され、措置場の旧事務棟を復元した「長浜ホ-ル」や英世関係資料の展示室が設置されている。

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