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「川と海から」-097.

根岸の旧家新井氏のおこりについて

(築井戸稲荷)

 

 新編武蔵風土記稿には「村の北にあり除地六歩宝積寺持」とある。この地の旧家新井家所蔵文書によると「先祖吉左衛門儀永正十三年七月十一日相州新井城落城のみぎり十七人にて武州久良岐郡根岸の原、築井戸と申す所に蟄居、以後右の所に先祖の宮これ有り。二代目吉右衛門寛永のころ今の海際加所(加曽か)と申す所に住居し」とある。現在も根岸の海岸地域には大久保、岸、成田、宮田などの旧家がある。

 しかし、これが永正十三年の三浦新井城落城のときの落ち武者かどうかは残念ながらわかっていない。鎌倉での度重なる戦乱、三浦道寸の攻略、後北条による後三浦の攻略など戦火はしばしばで、そのたび多くの落ち武者や難民が出たであろう。後北条のころの房総里見氏との間の湾岸戦も絶えなかったが、このあたりの農漁民と対岸内房総の農漁民とは略奪・定住・通婚などでかなり混交していたと思われる。両岸とも相手軍の狼藉から身を守るため「半手」と称して敵方に米を送って安全を保障してもらい、また生け捕りになった男女も身の代として米を送って買い戻すこともあった。

 「北条氏直と里見義頼弓矢の時節、相模・安房の間に入海有て舟の渡海近し。故に敵も味方も兵隊船多く有てたたかひやむことなし。夜になれば或時は小船一艘二艘にてぬすみに来て浜辺の里をさはがし、或時は五十艘三十艘渡海し、浦里を放火し、女わらべを生捕り即刻夜中帰海す。嶋崎などの在所の者は、わたくしにくわぼく(和睦)し、敵方へ貢米(ぐまい)を運送して、半手と号し、夜を心安く居住す。故に生捕の男女をば、是等の者敵方へ内通して買返す。去程に、夜にいたれば敵も味方も、海賊や都海せんと浦里の者ふれまわって用心をなし、海賊の沙汰日夜いひ止む事なし(北条五代記)」。

 築井戸のあたりは樹林が鬱蒼と茂り湧水もあるから農業に適し、海岸付近に比べれば身を潜めるには容易な土地だったと思われるが、三浦の新井城落城の頃の落人としているようであるが、すでにその前に「平子郷」を「本牧郷」と変えるほどこのあたりまで後北条の努力が及んでいたと思われるが、それなのに敢えて敵方の地に逼塞したのはなぜだろう。なによりも三浦半島の突端からここまではかなりの距離があり、ここよりも後北条の敵方である対岸房総里見氏の庇護を求めた方が容易だったのではなかろうか。また狭い根岸台地に潜むより奥の深い神奈川辺の方が安心できたのではなかろうか。いずれにせよ根岸新井氏の出自については今後の考察に待つしかない。

 境内に天保2年(1832)の年号の入った水盤、大正11年(1922)11月2日の「稲荷出現記念碑」、とともに昭和7年11月17日の新井一統定右衛門門以下十五人の名の「築井戸稲荷四百年記念碑」がある。後者の建立年から四百年を逆算すると大永2年(1522)になり、新井城落城の永正13年(1516)とは7年間のちがいがある。「稲荷出現」という内容もよくわからないが、この地に移住して七年あとこの地に「出現」した伝承でもあるのだろうか。これも今後の考察を待ちたい。根岸の新井家では毎年二月の初午の次のに日曜日にこの寺と三浦の新井城跡で先祖の供養を営んでいる。

 

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