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「川と海から」-127.孫文上陸記念碑

 

 中国革命の先駆者孫文が日本での運動のためひそかに上陸したのがここの海岸で、慶珊寺山門脇に岸信介氏の筆になる上陸記念碑がある。副碑として次の説明がある。近代中国建設の父とにして、三民主義、大アジア主義の提唱者である孫文先生は、第二革命に際し袁世凱に追われて中国を脱出、台湾経由、日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日、横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功により当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わなければなりません。しかも今回、右の史実と意義を顕彰のため建てられた、この史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣工したことは両国親善の歴史に大きな金字塔をなすものと言えましょう。

 昭和59年8月17日 孫文の日本での活動台は主として中区の中華街に潜伏して行っており心ある日本人の協力も得たが、中華街に孫文の史跡碑が一つもないのは意外である。

 現代中国で政治的立場のちがいを越え最も崇拝されているのが孫文で「国父」の尊称で呼ばれている。彼の指導のもとに辛亥革命が成功し中華民国が誕生(アジアで最初の共和国である)したが、その中では早くも路線の違いから左右の対立を含んでいた。その後の日本軍部の大陸侵攻に対抗するための戦略的配慮から何回かの国共合作が行われたが、いずれも方便でしかなく、中国共産党が本土で圧勝するや国民党は台湾に逃れ、以来二つの政権が対立したまま今日に及んでいる。

 中国革命最大の功労者孫文の生涯は波乱に富んでいたが、横浜とは、特に中華街とは極めて濃密な関係があった。孫文は当時の中国の青年たちがみなそうであったように日本の明治維新に深く傾倒し、中国革命の原点を明治維新に置いた。日本の研究や日本での組織活動・資金活動のための来日は十数次に及び、三十数年に及ぶ革命運動のうちの九年間あまりは日本でのものだった。

 またアジアの後進国家が強大なロシアを破った日露戦争は、若い革命家たちを日本に引きつける大きなきっかけになった。日本は中国の先進的青年の留学先として格好の国となった。裕福な家庭の青年はアメリカに、貧しい青年は日本かフランスを選ぶのが常態であった。日本留学組には孫文以外に魯迅、陳独秀、蒋介石、廖承志などがおり、フランス組には周恩来、鄧小平などがいる)

 列強の帝国主義的侵略と腐敗した清王朝を前にして、民族主義・民権主義、民生主義を骨子とした革命理論「三民主義」は日本人の間にも多くの共鳴者を生み、宮崎滔天、内田良平、頭山満などの大アジア主義の人たちを熱烈な協力者にした。しかし自由民権運動も挫折し、西欧列強の進出を前にアジア諸国の連携を求めた日本の民族主義者たちも、日清・日露戦争の勝利を経て徐々にアジア諸国との連帯から西欧列強入りに変質して行くのである。かつて羨望のまなざしで眺めた日本は中国・朝鮮などアジア後進国を踏み台に欧米列強と覇権を争うようになり孫文は次第に絶望の度を深めて行く。福沢諭吉の主唱した「脱亜入欧」論はその典型で、内田良平、頭山満、徳富蘇峰、原敬などが延長線上にあった。その反面、宮崎滔天、山田良政(恵州蜂起に参加して戦死)、山中峯太郎(孫文により革命軍参謀長を委嘱される)などの分化を見て行くのである。 明治28年広州挙兵に失敗した孫文の潜伏先は現在の港郵便局付近の山下町53地のキングセ-ル商会であり、明治30年の亡命時には中国人同志の自宅山下町119、121番地の(現在の朱雀門付近のあたり)で、ここには宮崎滔天、山田純三郎、頭山満、犬養毅などが訪れている。旧態依然たる清国が新興国日本に破れ清朝打倒に立ち上がった孫文が袁世凱に追われて大正2年(1913)に日本に脱出したとき和船で上陸したのがここ富岡海岸である(上陸地点が慶珊寺入口と確定できているわけではない)。亡命碑は本来中華街に建立さるべきであろう)。

 この亡命のとき孫文の面倒を見たのが横浜の中国貿易商宮川氏で、その後娘の薫さんと孫文のあいだにロマンスが生まれ一子富美子さんが誕生する。この名は孫文の「文」を「ふみ」と読んだものである。辛亥革命が起こるや孫文は急遽帰国し南京で臨時大統領に就任した。中国からの仕送りが絶えた薫さんは足利市のお寺の僧侶と結婚し,富美子さんは里子に出された。1990年に富貴子さんは西区浅間町の「酒屋のおばさん」として亡くなるが、神戸から「華僑歴史博物館」「孫中山記念会」「孫中山研究会」の花輪が届けられ近所の人たちを驚かせた(「神戸・横浜二都物語」による)。

 没年の前年の大正13年(1924)11月28日に孫文は神戸各団体に招かれ、神戸高等女学校で歴史的な講演をする。「日本は中国を助けて不平等条約を廃除すべし」がそれで「大アジア主義」講演として知られている。その中で三千の市民を前に東洋と西洋の文化のちがいを語り、東洋の政治が仁義道徳をもちいる文化、人に徳を慕わせる「王道」であったのに対し、近代西欧のそれが武力で人を圧迫する文化を基礎とした「覇道」であるとした。「日本が不平等条約を廃除したその日が、全アジア民族の復興の日であった」とし、控えめな口調ではあるがその日本がこれからのアジア文化の伝承者として国際社会で王道の道を進むか、それとも西欧列強とともに覇道を行くか、日本人の選択にかかっていると説くのである。

 「あなたがた日本民族は、すでに欧米の覇道の文化を手に入れている上に、またアジアの王道文化の本質をも持っておりますが、いまより以後、世界文化の前途に対して結局、西方覇道の手先になるのか、それとも東方王道の干城となるのか、それはあなたがた日本国民が慎重にお選びになればよいことであります」‥‥孫文の講演から九十年も経過しているのに日本人は孫文のこの言葉に対する十分な回答がいまにできていないのを残念とするのみである。

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