top of page

「川と海から」-131.富岡八幡宮

 

 建久2年(1191)幕府発足の前年に源頼朝が摂津の難波の蛭子尊(ひるこのみこと=エビス様)を勧請し当郷鎮護を祈ったもので鶴岡八幡宮とほぼ同時代の創立である。鎌倉の鬼門封じの意味があったのであろう。伝承では旅の僧がこの地の貧しい老人の家に現れ食物を乞うたとき、たまたまあった麦の酒を差し出したところ「われは八幡の神なり。今日からはわれを祀るべし。われを信ずる者には厄を除き幸を与えん」と言って姿を消した。このときから八幡宮となったという。

 応長元年5月18日夜、「長浜千軒」と繁華ぶりをうたわれたこの地が大津波に襲われたとき富岡の部落だけなんの損害もなかったが、これを富岡八幡宮の加護によるものとし「浪除八幡(なみよけはちまん)」と称して更に信仰を集めた。このとき生き残った漁民の部落が柴町のはじめという。ちなみに現在の町名の「並木」は陥没前にここにあった並木(漁師たちが並木の瀬と呼ぶ好魚場があった)に由来する(また「福浦」は和名抄の古地名「鰒浦(ふくら)」を援用したものだが「幸浦」は「福」との対語として意図的に造語された町名である。「小柴」はこのときの「越し場」だという説もある)。

 徳川氏が江戸に開府し町づくりをはじめたが江東低地部の冠水には絶えず腐心した。そこで浪に強いここの八幡宮から分霊を勧請したものが現在の深川八幡宮である。この地の地頭豊島刑部明重は家康から家光まで仕えた頃のことだからこの分霊にも関与していたであろう。明重はこの神社を篤く崇敬し慶長15年(1610)に立派な社殿を造営したがそのときの棟札が現存している。現在の社殿は平成14年に改修造営されたもので、覆堂の中の本殿は桃山時代の天正十四年(1586)造営のものが残されている。横浜市指定文化財の梵鐘は説明もなしに休憩所隅に置いてある。社叢林は横浜市天然記念物。

 

*卯陪従(うべいじゅう)‥‥卯の日の陪従神楽の意味で毎年二月と十一月の初めの卯の日の夜七時頃から行われる。陪従(「ばいじゅう」とも言う)とは一般には京都の貴人に仕える人を言うが、古代は賀茂神社、石清水八幡宮などの祭儀に神楽の管弦演奏者を指した。武家政権となっても文化面では都の手ぶりが珍重された鎌倉に中央文化が伝播したものであろう。鶴岡八幡宮でも楽人十三人を京都に派遣して宮廷の秘曲を伝習させたという記録がある。この神楽は今でも鎌倉神楽として藤沢・戸塚・金沢から三浦半島付近の祭礼に行われている。二月と十一月に行われるのは祈年祭(春祭り)と新嘗祭(秋祭り)が生活の根底をなす氏神祭りの基礎だったからである。一名「湯立神楽」とも言われるが、湯立神事に使われる唐金の大釜(江戸商人奉納のもの)も保存されている(休憩所)。

 

*祇園舟‥‥例大祭に行われる神事で、70センチ×50センチほどの楕円形の舟にお供えものとして折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉のだんごを置き、麦麹でかもした甘酒をかけたものを載せ、船べりには一年分十二本の御幣を並べ立て、中央に大きな御幣を立てて沖合い遠くに流しやる行事である。祇園祭りは夏のこくぞう虫退治・五穀豊饒を祈る夏越祓(なごしのはらえ)だが、その年に収穫した初穂を神に供え、かつ海の幸の豊漁もあわせ祈る神事が習合したものであろう。八幡丸・弥栄丸という五丁櫓の専用船で行われ、帰路は岸まで全速力の競漕で帰る勇壮なお祭りで優雅な雅楽の音とともに昔ながらに行われている。神事はかつては富岡漁業組合が行っていたが解散後は「祇園舟保存会」の手で継承されており、平成2年には横浜市無形民俗文化財に指定された。

bottom of page