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「川と海から」-132.海宝楼跡(田沼邸)

 

 八幡宮から慶珊寺方面に抜ける道筋に「田沼」と表札のある大邸宅があるが、これが明治時代にこの地で絢爛豪華を誇った料亭「海宝楼」の跡地である。

 景勝地・保養地として貴紳顕官が公私両面で集う富岡に必要な社交場の必要性が高まり明治13年に鶴見の実業家小野又七が開業した。また明治19年には地元有志によって「金波楼」も開設された。当時としては珍しい株式を発行し集めた出資金四千円を基にしたもので海水を引き込んだ生け簀でのアカダイ・クロダイ・カレイ・スズキなどの活魚料理が名物であった。関東大震災によって金波楼は崩壊し、一方東海道線の盛業で鎌倉・逗子・大磯など新興地域に人気が集まる反面富岡が復活することはなかった。

 表札の「田沼」とは現在の磯子区岡村にある横浜学園の創設者田沼太右衛門氏の一族のことである。田沼氏は明治期にそれまでの女子教育が宣教師の経営するミッションスク-ルしかないことから私設の女学校経営を思い立ち、横浜で最初の日本人経営の「元街女学校」を創設した。ここは国語の中島敦・音楽の渡辺はま子などで知られていたが、戦災に遭い平沼の県立第一高女に間借り生活を送っていた。岡村で創設された横浜中学校が谷津坂の大日本兵器工員寮跡に移転したのを受け継ぎ岡村に移転してきて現在に及んでいる(現在は男女共学)。

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