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「川と海から」-133.小柴の海で

引き上げられた敵味方のプロペラ

 

 

 太平洋戦争のさなか京浜上空では空爆に飛来したB29、護衛戦闘機P51と厚木や横須賀の航空隊から迎撃に飛び立った日本の戦闘機が壮絶な空中戦を展開していた。またあちこちの丘陵に布陣した高射砲の火が噴いた。その結果かなりの数の日米両国の飛行機が今は平穏になった根岸湾に沈んでいる。

 平成17年2月に小柴の漁師の網に二個のプロペラがかかった。網を破かれたものの海岸に引き上げられたプロペラのうち一機分は日本の零式戦闘機のものとわかり、愛好家によってすぐ引き取られたが、もうひとつは米軍機のものと想像されたが機種不明のまま厚木の米軍基地に届けられた。日本人の常識として搭乗パイロットのため米軍が丁重な慰霊をするだろうと想像したのである。ところがそのへんの考えが日米でかなり開きがあり、戦時体制のない現在の日本にはチャプレン(従軍牧師)がいないので慰霊のセレモニ-はできないと、そのまま深谷の通信隊の物置に格納されてしまったのである。

 直径3.5メ-トル、薄幸のプロペラは廻りまわって18年暮に岡村三丁目の葛城家の庭に落ち着くことになった。米機に詳しい専門家粂喜代治氏の調査でこれがP51D(ムスタング)のものと判明した。海面に墜落したときの衝撃で四枚の羽根の一本が吹き飛び、他の三枚も大きく曲がっていて60年間の海底の眠りを示すように藤つぼが全体を埋めている。サイパン島・テニアン島が陥落してB29が首都圏を直撃するようになったが、20年4月に硫黄島守備隊が玉砕してからは護衛戦闘機の基地ができ、B29には途中の硫黄島から合流するP51との「戦爆連合」が各都市を襲った。

 昭和20年5月29日の横浜大空襲にはB29五百十七機とP51百一機による昼間無差別都市爆撃で横浜中心部が壊滅したのである。P51は爆撃機の護衛だけでなく地上の非戦闘員も機銃掃射するなど猛威をふるったから、当時の人にとってP51は艦載機の「グラマン」とともに忘れられぬ思いがある。当主自身学徒動員先の川崎の工場でこの戦闘機の機銃掃射を受け危うく命びろいしたほどだが、六十年も経てば敵も味方もない。恩讐を越えててみんなで戦争がないように祈りたいものと、それ以後毎年硫黄島玉砕の日、敗戦記念日、横浜大空襲の日などに当時の被害者があつまってバ-ボンを注いで供養している。

 横浜駐屯の米海軍司令も花束を持って駆けつけたこともあります。「搭乗員は機上で戦死したのかパラシュ-トで脱出できたのかわからないが、もし戦死した日がわかれば毎年その日に慰霊したいというのが参加者の声である。

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