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「川と海から」-006.外国人遊歩場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 根岸競馬場が完成したのでコ-スの外側に移ったが中央低地部には射撃場脇から不動坂につづく「外人遊歩道」があり、山手居留地に住む外人が遠乗りを楽しむため往来した。横浜周辺の外国人遊歩範囲は安政4年の日米協約で開港場十里四方、北は多摩川下流川崎宿まで西は酒匂川までと決められ、この範囲内ではパスポ-トなしでピクニックが楽しめた。攘夷派浪人のテロを警戒するため34~35カ所に「番小屋」が置かれたが、安政7年(1860)2月28日付で幕府が指示した「触れ」では区域内の村々に番人として当時「穢多」「非人」と呼ばれた被差別部落民を差し出すよう命じている。

 文久2年(1862)の生麦事件は「遊歩区域」の中のことで、しかも通報された予定日の前日に起こったものだけに被害者の英国はじめ各国は激昂し、賠償金の支払いのほか今後の遊歩安全対策にきびしい要求をつきつけた。やむなく幕府は大名行列用に今の246号線を拡福した大名用の新道路建設まで計画したが、予算が膨大になるためアメリカ領事の献策と交換条件を受け入れ元治元年(1864)に「横浜居留地覚書」の中の一つとして決定されたのが「山手公園」と山手台地を周遊する「遊歩道」である(この覚書ではこのほか競馬場の建設、墓地の拡大、天然痘の隔離病院、屠場の新設、居留地裏の花街の移転などが決められた)。「東海道を遊歩するかわりに‥‥日本政府にて此後取極むる馬に乗るに尤便利にして景色良き且運動のため根岸の方へ広き道を造る事を承諾せり」と外国奉行の記録にある。

 こうして延長4~5マイル(7~8キロメ-トル)幅員20フィ-ト(6メ-トル)以上の遊歩道を幕府の費用でつくることが決定された。遊歩道の設計は英国レイ工兵少佐が行い5700両をかけて予定よりやや長い9キロメ-トルが慶応2年に完成した。幕府は外国人殺傷事件での莫大な補償に比べれば安くすむと判断したのである(ちなみに生麦事件のときの賠償金は3万両、それが惹起した薩英戦争の賠償金は33万両であった)。元町から地蔵坂を越えて根岸台地に上り、根岸湾を眺めながら不動坂を下り、間門、本牧を経て山手に戻るコ-スがこれで、途中の休憩所としては不動坂近くの「シエイクスピア・イン」ではハムとベ-コンが、八幡橋際の大竹屋では天然牡蠣が評判であった。覚書で決められた日本初の洋式「公園」とは現在の「山手公園」(麦田トンネルの東側、元街小学校の下)で、これは幕府からの借用地に外国人たちが一株20円で集めた資金で会社組織として建設した(日本のテニスにおける発祥地でテニス博物館がある)。

 

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