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「川と海から」-005.根岸競馬場

 

 

 

 文久元年(1861)、州乾弁天裏の西海岸(生糸検査場付近)を埋め立てて馬場と馬見所をつくり、幕府の役人が馬術の練習をしたり外国人が競馬会をして楽しんだりしていた。文久2年(1862)5月1日と2日に居留地外国人による初めての本格的な競馬会が開催され、居留地の新聞「ヘラルド」にプログラムとル-ルが掲載されている。またこれを「よこはまかけのり、はるのもよおし」と翻訳した木版印刷物も現存している。このときの場所は造成中の横浜新田と言われている。その後山手の英仏軍練兵場や射撃場でもレ-スが行われたが、場所が狭いため慶応2年(1866)6月に根岸の丘の上に新しい競馬場が着工され9月に完成した。これが日本最初の近代競馬場で、工事の設計・監督には英国陸軍大尉ボンドがあたり工費は幕府が負担した。総面積65,300平方メ-トル、外側コ-スは全長1,764メ-トル、走路の幅は28.8メ-トル、それに63メ-トル四方の観覧席が設けられた。馬場の中央は畑で東南は崖が根岸の海に落ち込んでいた。居留地から根岸不動坂に通ずる外人遊歩道も当初はこの谷間にあった。「場の東南海に面す。眼を転じて海上眺矚すれば遠山近湾画図の如し(市史稿)」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一回のレ-スが行われたのは慶応3年の春で、明治天皇が四頭だての馬車の前後を近衛騎兵に守られて行幸した。天皇は競馬が好きで32年まで行幸は13回にわたり、そのたびに横浜港に停泊中の内外軍艦は21発の礼砲を放った。横浜ステ-ション(今の桜木町駅)から薩摩町、花園橋、亀の橋を経由して地蔵坂から丘に上るのが通常のコ-スであった。「行列は騎兵を先頭にヤリの先に三角旗をつけた四人の近衛騎兵を先頭に、ヤリを下に向けた二人の騎兵、四頭だての天皇の馬車、侍従、騎兵という順序で地蔵坂を上がって来た。楽隊(英国海軍軍楽隊のマ-チ)に迎えられて競馬場に入るときの美しさ、勇ましさはなんとしても忘れられない印象だった。帰りは競馬場を一周してまた地蔵坂を降りて行った(横浜今昔)」。天皇はまた「皇帝陛下御賞盃」を下賜したが、これが現在の「天皇賞」の前身である。地蔵坂は都心部から根岸に馬車・馬力の通ずる唯一の道路であったが、自動車の時代となり、元町トンネルの開通、打越切り通しの完成によって幹線道路の首座を奪われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 創設当初の競馬は外国人だけで組織された「レ-ス・クラブ」が運営にあたったが、そのためこの競馬は「外国人競馬」「英国競馬」などと呼ばれ日本人には無縁のものであった。その後日本人も加入できるようになり明治8年に西郷従道が第一号会員となった。馬主になっただけでなく、愛馬「ミカン」が優勝したこともある。鹿鳴館ができた明治16年(1883)まで日本政府高官と外国人との交歓の場は根岸競馬場だけしかなく、ここは内外の高官や実力者が集まる一大社交場であった。天皇のたび重なる行幸も不平等条約改正の悲願がこめられていたのである。明治5年春の競馬会では県内の人力車曳きが俊足を競う余興があったという(「新聞雑誌」39号)。昭和6年(1931)からは毎年春秋8日間の競馬が開かれるようになり昭和9年の春季競馬では入場者10万人を突破した。中学校卒業者の初任給が日給1円30銭の当時、入場料は一等5円、二等でも2円であった。馬券は5円から20円で一レ-スについて一人一枚しか売らなかった。

 太平洋戦争の拡大によって昭和18年6月10日由緒ある根岸競馬は閉鎖され海軍に接収された。やがて巨大なスタンドは在日外国人の収容施設となる。12月8日開戦と同時に一時間のうちに敵国人を軟禁し男性約300人がここに抑留された(女性約50人は新山下町のヨットハ-バ-に収容)。間もなく抑留所は閉鎖され移転したが、この場所から東京湾が一望でき横須賀軍港の軍艦の動静が手にとるようにわかって秘密保持に難点があるためであった。馬場は食糧増産のイモ畑となり、海軍の暗号書などを印刷する「文寿堂」がここを工場にしたが、敗戦時にスタンドにうず高く積まれた膨大な上質印刷用紙は東京の出版社の貴重な出版資材となった。敗戦直後の中央公論社の「細雪」「荷風全集」、岩波書店の「漱石全集」などすべてここの印刷製本である。ちなみに「文寿堂」は横浜の老舗で、明治期に馬車道で開業し洋式手帳の元祖であった。その後争議や隠匿物資の摘発や社長の脱税容疑やらがあって社運が傾いた末米軍に接収され、兵器修理部隊が駐屯してゴルフ場やモ-タ-プ-ルとして使用されていた。昭和44年に接収解除となりその後昭和52年10月に根岸森林公園・馬の公園が開設されて現在に至っている。一等馬見所(スタンド)は横浜で誇るに足る歴史的建造物の一つで辛うじて保存策が取られているが、予算不足で老朽化が進み心配されている。日本競馬会の英断を求める声も強い。

 

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