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「川と海から」-095.

初期の根岸湾の埋立て計画

 

 根岸湾の埋立て計画は明治末にさかのぼる。

 中央政界を縁のあった華族奥田直弘が「久良岐郡本牧十二天より根岸村、屏風ケ浦村、金沢村、富岡地先まで」335万4079坪を埋め立てて工業地帯、港湾地帯にしようという大計画で、これは根岸湾埋立て一期二期工事より大きい。日清戦争後の国威発揚期の壮大な夢であったが、当時の技術力からして不可能であった。大正2年(1913)、横浜市会は「本牧、根岸、屏風浦埋立計画」を議決したが実施には至らず、昭和5年に現プ-ルセンタ-周辺だけが完成した(これが後の日航飛行艇基地の母体となる)。「根岸町及本牧町地先面埋立計画図」によれば横浜の都市化にともない風光明媚なこの海岸一帯を埋め立てて一大宅地造成をしようとするものであった。格子状の街路網をめぐらし周囲を幅員10間以上の地区道路が囲み中には幅5間の道路が通っていた。海側の道は幅員18間も取り、間門から二ノ谷にかけての地区には海面にバルコニ-状の突出部(露台)を設けて公園道路の趣きを強く示すものであった(このデザインはその後の震災復興時の山下公園で実現している)。住宅地の中央部には1200坪の公園が配置され、埋地両翼には防波堤のついた船溜りを設けて漁船以外にも「遊船」にも利用するという当時としては斬新なプランであった。これが実現していたら横浜最初の海浜人工住宅街として名所になっていたことであろう。

 関東大震災のとき横浜中で集められた瓦礫で埋め立てたのが現在の山下公園だが、瓦礫の廃棄場はそこだけではなかった・大正12年10月10日の「横浜市日報」には「焼跡土石処分に関する件」として次の4か所が指定されている。①山下橋ヨリ税関桟橋南百間ノ地点ニ至ル標示箇所、②根岸町土砂捨場東隣リ海面中標示ノ箇所、③青木町船入場区有水面中標示ノ箇所④、神奈川棉花町旧砲台場西隣リ公有水面中標示ノ箇所。なおこの公告では「市内ノ土地ハ一帯ニ低下セル状態ナルヲ以テ焼跡土石ハ可成敷地地上ゲ用ニ供セラレタシ」「濫ニ通路、海面、河川、下水、水路等ニ投棄スベカラズ犯ス者ハ処分セラルベシ」とある。

 昭和16年には臨海工業地帯の造成を目指して杉田沖97万坪の計画があったが戦争で挫折した。こうして根岸埋め立ては計画と挫折を繰り返し戦後にいたって初めて実現のめどがついた。昭和26年に桜木町駅から磯子に抜ける鉄道新線延伸計画が打ち出されたが、これは昭和12年の計画が20年あまりオクラにされやっと陽の目を見るようになったものである。以後の計画実現の過程は「磯子の史話」に詳しい。

 

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