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「川と海から」-102.室の木古墳

 

 「室」の文字を含む地名は室津、室積、室ノ浜、室根、室見など全国に見られるが、近辺では追浜の旧横須賀海軍航空隊付近(現在工業団地)の所在も「室の木」である。これらはいずれも海沿いの場所だが、古くからビャクシン科の「ねず」(一名ね「ずみさし」とか「社松」とか言う)が「むろ」と呼ばれたようである。砂地や花崗岩地帯などの地味の痩せた土地に自生し、幹は直立して高さ二~三丈に達するという。「社松」の語が暗示するように海岸地方に自生する「ねず=むろ」は海民にとっては神の天くだる「寄りしろ」であり深く崇敬された。

 海岸地方の地名に「むろ」が定着したこともこのためと思われる。 禅馬川が磯子小学校付近で屈曲するあたりの磯子区久木20-26,27付近にあった磯子室の木古墳は海岸線からさほど遠くない沖積地に立地する円墳で、昭和8年(1933)に発掘されたときは石室が露出し、直径約30メ-トル、高さ約2.4メ-トル、主体部は凝灰岩の切石で築かれた横穴があり、奥行き約2メ-トル、幅約2メ-トル、残存高約1.7メ-トルと測定された。

 出土品には須恵器高杯、土師器、直刀断片、鉄鏃、金製馬具、埴輪頭部などがあり国立東京博物館に所蔵されている。埴輪頭部は極めて稚拙なもので、市内各所河川流域遺跡から出土した埴輪がかなり整っているのに対して(鶴見川水系の上台遺跡出土の顔面土器、大岡川・帷子川水系の瀬戸山古墳出土埴輪)に比べ禅馬川流域の生産性の低さを想像させるものがある。恐らく他の肥沃な広い水田を擁した遺跡周辺においては専門工人を生むだけの余裕があったのに対して、この地の文化状況はそこまでは達していなかったのではなかろうか。稚拙とは言え、室の木古墳の埴輪には労働に密着した質朴さで感動させてくれる。

 磯子区北部の遺跡として岡村の三殿台が有名だが、縄文・弥生期に丘陵上に生活していた古代人が禅馬川水系流域の干拓・水田化とともに低地部に進出した。6世紀後半と言われる室の木古墳の被葬者はそのリ-ダ-である。海岸線からの距離を考えると、このリ-ダ-は水田耕作とともに海の管理にも当たっていたことであろう。ここに聳えていた「ねず」の大樹は本牧沖あたりに出漁する村びとたちの魚場確認の「山通し(目標を定めること)」の目印になっていたのかも知れぬ。

 三殿台遺跡・室の木古墳に共通するが、対岸の房総半島沿岸地方の青堀古墳群・君津古墳群の100メ-トル級前方後円墳や豪華な出土品と比較して考えると、西日本稲作文化の東漸は横浜南部に直接到来したというよりも三浦半島から房総半島に流れ、(あるいは黒潮に乗って)房総半島に文化の花を開かせつつ常陸・磐城へと北上し、横浜南部にはその過程で房総に蓄積された文化活力の一部が海を横断してこの地に波及したのではなかろうか。(三殿台遺跡出土の縄文期・有角石斧は市内では僅か二か所中の一個という希少な遺物だが、房総・常磐におびただしく豊富に出土している有角石斧の流れを考えるにつけても、横浜南部の文化は房総半島との関連で考えなければ解明できないことと思われる)。

 

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