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「川と海から」-028.

美空ひばりが育ったところ

 

 

 美空ひばりは昭和12年5月29日(1937)ここ磯子区滝頭2丁目の通称「屋根なし市場」の、滝頭小学校方向の端の魚屋「魚増」で加藤増吉の長女として生れた(昭和12年は日中戦争本格化の年、5月29日は横浜大空襲の日である)。市場は今は無くなったがこの一画や生家は今でも残っている。玄関の裏の壁は昔の魚屋当時のタイル張りのままである。

 抜群に音感と記憶力がよく、三歳のときには百人一首を75首まで暗唱できたという。就学前から歌がうまく町内の演芸会には引っ張りだこであった。親戚の若者たちと「美空楽団」を結成し町内のお祭りや演芸会の人気をさらった。

 昭和21年小学校3年生のときに磯子のアテネ劇場(区内の最高納税者長谷鉄工社長の長谷一郎氏が市場を改造した「磯子劇場」が280席に改装したときのこけら落し)で美空楽団の旗上げ興業が3日間行なわれ初舞台を踏んだとされていたが、小柴俊雄氏の考証では日飛下請け工場主で戦後アルミ鍋工場を経営した高田菊弥氏がつくった杉田劇場(椅子・桟敷計300)、専属の大高劇団の幕間つなぎとして「旅すがた三人男」「おつかいは自転車に乗って」「リンゴの唄」の三カ月間長期興行が最初という。

 杉田劇場は七世松本幸四郎、勘三郎、歌右衛門(芝翫)も参加するという豪華版であった(杉田劇場は根岸線と16号線の交差する下「菊弥不動産」の場所にあったが昭和30年頃閉館。

 ステ-ジママの喜美枝は東京から招いた夫婦漫才の前座出演で「美空和枝」の名が小さいと言って悶着を起こしたこともあるが、滝頭小学校長佐野孝氏(磯子小学校校長、浜教組委員長を経て県会議員)がその才を惜しみ背後で応援した。

 昭和22年に野毛に国際劇場が開館し出場するとここで一躍スタ-になったが、前年の昭和21年11月にはNHKのど自慢であまりにも大人びて子供らしいところがないとして落選になったりした。昭和30年代になる旧と磯子プリンスホテルの下に磯子湾を望むプ-ル付の宏大な「ひばり御殿」を建てて移り、その後は東京に定住した。

 

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