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「川と海から」-024.

びん工場・耐火煉瓦・捕虜収容所

 

 

 坂下橋と根岸橋の間の「日産」のあるところにあったのがキリンビ-ルのびんを専門に製造していたびん工場で、その跡地に根岸の家森卓三が明治34年3月「横浜耐火煉瓦製造所」を創業した。横浜港出入の船のボイラ-用の耐火煉瓦、ガス工場のガス発生炉、製鉄所の溶鉱炉壁面などに使われ、それまでの輸入品の国産化をはかったのである。戦後石炭ボイラ-はディ-ゼル汽缶に代わり耐火煉瓦の需要が減って昭和36年に閉鎖した。

 あまり知られていないが、太平洋戦争末期ここには「俘虜収容所」(戦時中は「捕虜」でなく「俘虜」と言った)があった。現在の横浜スタジアムに東京俘虜収容所第三分所が置かれ、その管轄下に、東芝鶴見工場、日清製油、三菱ドック、鋼管鶴見造船所、同川崎工場、同扇町工場、同浅野ドック、鶴見大阪造船、横浜沖仲仕、川崎味の素、鶴見日清製粉とこの横浜耐火煉瓦に「派遣所」があった。

 収容所は19年5月1日に「第十八派遣所」として開設され20年6月4日にに86名中81名は新潟に5名は本所に移った。所長の少尉はここで空襲時に避難させずに労働させたこと、赤十字品の横領、部下の暴力行為の容認、空襲時に避難させずに23名を死亡させたたことなどで横浜軍事法廷で戦犯として重労働9年の刑を宣告されている(確定は7年11カ月)。横浜の法廷は市ケ谷のA級戦犯より下のB・C級戦犯を対象としたが、戦後間もないころは連合国側に復讐心が強く実際以上の刑が宣告されたり、しばしば無実の容疑で宣告を受けたりした。文化や生活習慣のちがいで本人も理解できない判決も多かった。年代がくだるにつれアメリカの対中・対ソの戦略から日本の旧軍人活用、潜在的軍事力活用の都合上判決が甘くなるという不合理な裁判であった。ここの収容所長への判決も果たして妥当なものだったかどうかわからない。

 

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