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「川と海から」-023.

市電車庫・修理工場・友愛病院

 

 

明治37年に開業した「横浜電気鉄道」の市街電車は明治45年に路線を駿河橋から八幡橋まで延長し(その後八幡橋から磯子が大正14年に開通)、堀割川両岸に道路が揃った。それまでの根岸側の桜並木の道から滝頭側の道がメインとなって来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関東大震災で電車の車庫が全壊したが大正14年に新しい車庫を予算1万4千余円で再建することになった。このときに修理工場が併設された。麦田、生麦にも車庫や小工場があったが大修理のときは横浜中の電車がここに集まったのである。

 昭和47年3月31日、最後の市電が発車してチンチン電車70年の歴史を閉じ、ここは「市営バス滝頭車庫」となったが、長らく市電運営の中枢だったため「本局」と呼ばれて来た。構内には無数のレ-ルが敷かれ、端の方には電車の入れ替え作業のための装置(トラバ-ス)があり、子供たちはバラ線でつなげたコ-ルタ-塗りの枕木の間から入れ替え作業を眺めるのが楽しみだった。

 現在労働会館のあるあたり一帯は市電従業員のための一棟二戸の家族住宅が並び、横浜電気鉄道会社のころからのしきたりで「社宅」と呼ばれていた。剣道に熱心で練士、範士の称号を持つ従業員も多かったため剣道場もあり、近所の子供たちにも指導してくれた。

 戦前の市電従業員の労働組合は「友愛会」と言ったが戦闘的で争議もしばしば行われた。もと市長飛鳥田一雄氏は自分が社会主義思想を抱くようになったのは、この前を通るたびに争議の赤旗を見たからだと述懐している。「友愛病院」「友愛リハビリセンタ-」の名もこの「友愛会」に発するものである。

 戦争たけなわのころ友愛病院は木造で被害を受けやすいため学童疎開で空になった鉄筋コンクリ-トの滝頭小学校に移った。今井波吉医師(のちの磯子区医師会長)が磯子区医師防護団長として空襲被害者の救護を指揮した。20年6月10日の富岡駅付近の爆弾攻撃被害者もトラックでここに運びこまれが、その多くは手当ての甲斐なく絶命したという。修羅場にいた今井医師は後年「あのときは、つい、つれてくるなら生きのびそうなのにしろッ! と怒鳴ってしまった」と後悔の手記を書いている。

 

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