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「川と海から」-022.

このあたりの鎌倉落ち武者伝説

 

 

 元弘3年(1333)5月22日は北条氏最後の日で、鎌倉攻めの新田義貞軍は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷坂、巨福呂坂から、千葉貞胤軍は朝比奈口から侵攻した。鎌倉は火の海と化し北条高時はじめ名だたる武将は東勝寺で最後をとげた(「高時腹きりやぐら」)。鎌倉での死者は6千人と言われ今も市内から遺骨が発掘されている。

 ただすべての武士が自刃したわけではなく、中級下級武士は七口を避け監視の薄い山中をたどり鎌倉を脱出した。天園から峰、氷取沢を越え磯子に達する道も主要な脱出路で、あちこちの古老の記憶に鎌倉武士の最後が伝わっている(氷取沢の「観音やぐら」落人伝説もその一つである)。

 滝頭バス車庫の南に50坪ほどの空地があるが、ここは昭和8年の室の木古墳発掘の頃4間四方の丸塚があり、室の木古墳発掘に刺激され近所の人が掘ったところ骨壷が3人分出てきたという。

 さらに戦時中に防空壕を掘ったときにはカメに入った二人分の人骨が出てきた。この土地を買った人に必ず不祥事が起こるため、町内で買上げて石の「ほこら」を建て供養している。このあたりでは時々人骨の出る場所が多く、「新編武蔵風土記稿」にも供養塚、月見塚、経塚、滝頭塚など多くの塚の名がある。岡村泉谷の門倉家墓地には鎌倉武士三十六士の塔石残片があったという(現在は岡村の金蔵院に保存)。

 岡村草分け七軒会(田邉・岡田・石井・門倉・大湖・谷知・伊東)のメンバ-は先祖を鎌倉の落ち武者だと主張している。ただ鎌倉での兵火はこのときに限らず何回もあるのでいつのときのことか明確ではない。

 またなぜこの地に落ち武者自刃伝承が多いのだろうか。このあたりを目的地とするのは多分縁者でもある領主平子氏の庇護を期待してであろうが、その勢力圏であえなく自刃するというのは平子氏の庇護が期待できなかったからと想像せざるをえない。

 「困窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」の語があって武士道精神とも言われて来たが、平子氏の精神構造はあえてこれを取らず、仁や義よりも「いかに一門の命脈を保つか」を最高の善としたためではなかろうか。決定的瞬間に仲間さえ裏切る三浦一族と同じパタ-ンである。

 三浦氏・平子氏とも農民型武士道の視点でなく海民型武士道の視点で見れば、なまじ脱出者に手を差し出して北条氏につけ入られるすきを与えるようなことはしなかったのであろう。

 

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