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「川と海から」-129.合玉堂と「二松庵」

 

 日本画家として有名な川合玉堂は大正6年ころ富岡に遊び、ここの景観を大いに堪能した。大正12年頃までに数寄屋造りの別荘をつくり画室を備え「二松庵」と命名して画業にいそしんだ。(平成25年10月16日消失)

 敷地約2千坪、南側低湿地の下段と北側の山腹を切り開いた上段に分かれ、回遊式庭園になっている。平成7年11月に母屋と表門が横浜市指定文化財となった。移転したころは静かだった周辺も横須賀海軍航空隊の水上機が上空に飛来するようになるとその音に耐えかね、昭和7年に奥多摩に移転する。ここから2キロメ-トル離れた谷津の君ケ崎には鏑木清方の別荘「遊心庵」があって二人はしばしば往来したようである(清方は大正7年」家族とともに洲崎の東屋に長期逗留し、翌年君ケ崎の深川米問屋木村徳兵衛の旧宅を改造「遊心庵」と命名した。

 昭和14年までここに住んでいた。随筆集「金沢絵日記」「君ケ崎漫画筆」「こしかたの記」などにこのあたりの描写がある)。 現在「二松庵」は横浜市が管理し月一回一般公開している。隣接する悟心寺の丘陵上墓地や切り通しのあたりは静かな場所で、往年のたたずまいを想像することができる)。

 玉堂は14歳にして日本画の道に入り手本の模写、花鳥の写生に励んだ。17歳のとき玉堂を号とし内国勧業博覧会で入選して名を上げた。

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