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「川と海から」-048.吉田新田

 

 徳川初期の開墾事業家吉田勘兵衛は摂津出身で、寛永年間に江戸に来て木材・石材を扱い幕府から重用され繁盛した。たまたま武蔵国久良岐郡横浜村に来て、大岡川が運んだ土砂の堆積した入り江が干拓に向くことを思い、幕府に埋め立てを出願した。明歴2年(1656)四代将軍家綱のころ工事を始めたが、洪水に悩まされ辛酸をなめた。そのため堤防を築いて水路を浚渫するなど力を尽くしたが進行が見られず、私財を投ずること8038両に及んだという。当時の海(野毛入り江)は現在の「お三の宮」あたりまで入り込んでおり低湿地も多かった。この大岡川河口から工事を開始し北側の野毛丘陵下の大岡川と根岸台地下の中村川にはさまれた部分を新田として干拓した(つまりお三の宮以東の大岡川・中村川は川と称するものの実際は野毛入り江の残欠部分である)。「お三の宮」には工事完成を祈った人柱「おさん」の伝説が残されているが、江戸赤坂三王神社を勧進して山王社としたもので、勘兵衛の胸中を忖度すれば州乾弁天を「鬼門抑え」、山王社を「裏鬼門抑え」として工事の完成と新田の豊饒を祈ったものであろう。

 多年の苦心が実り寛文7年(1667)ついに埋立て工事が竣工した。石材は伊豆、房総から海路で運び、土砂は太田村、中村、横浜村洲干洲の三カ所から採った。海岸の長さ833間、河岸石垣の長さ2725間にわたるものであった。また大岡川の水を引き込み農業用水とした。その水路の延長8200間を浚渫し、これに70カ所の大小の板の堰、35の橋を架け、2カ所の悪水吐き出し門を設け開発面積は116町歩に達した。この功により幕府は寛文9年(1669)4月「吉田新田」の名を与え、勘兵衛は名字帯刀が許され、その後も吉田町、吉田橋にその名を残している。京浜急行日の出町駅近く長者橋のほとり「吉田興産」(吉田家の資産管理会社)ビルの周辺は勘兵衛の屋敷あと(北二つ目)で、現在子孫を中心に様々な事業活動を行なっている。旧屋敷敷地内に古い井戸が残されているが、この井戸のあるあたりは埋め立て前は海であったにもかかわらず良質の水が湧いたので屋敷地に定めたという。新田の当時を偲ぶ唯一の遺構となっている。

 吉田新田干拓埋め立て工事のための土は野毛側の小丸と向かい側中村の大丸の丘が崩されて使われ、野毛側には現在「土取り場」の碑がある。この丘の下、大岡川までの低地には開港期に役所が置かれた。なお明治3年(1870)に根岸海岸に通じる運河(掘割川=明治7年完成)掘削ための土砂もその後の低湿地埋め立て用に使われ、新しい町が誕生した。これが「埋地八ケ町」である。ちなみに現在も「埋地七カ町連合町内会」の名にその歴史的痕跡ととどめているのも嬉しいが。八が七に減じたのは八ケ町の一つ蓬莱町が新田を貫通する新吉田川(今の大通り公園)の北側にあって一種の「飛び地」として「かたまり」からはずれたと意識されたからであろう。

 

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