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「川と海から」-101.

南川尻橋跡と禅馬川水系(この周辺の地名)

 

 16号線はバス停「浜」のところで禅馬川と交差しており、ここには「南川尻橋」という橋があった。この下流はすぐ海で放流していが、今は一帯が埋め立てられ、禅馬川もすべて暗渠になったため川の存在も忘れられている。16号線から磯子小学校のあたりまで屈折し道路が続いているがこれが暗渠でマンホ-ルをたどることで地下の旧禅馬川の存在を確認することができる。

 禅馬川は汐見台団地周辺と久良岐公園の二か所の水源に発し岡村天神前バス停下の低地部で合流した上岡村平地・北磯子団地・磯子小学前を経てここに通じていた。三殿台遺跡も室の木古墳もこの水系があって初めて成立したものだが、その存在がすべて地下に隠蔽されたは残念である。川幅もせまく水量も豊かでなかったが、この川の恵みによって岡村の三殿台遺跡・磯子室の木古墳が誕生し鎌倉期の平子氏が勢力を養う水田地帯が維持されたのである。禅馬川は実にこの周辺地域の命の水の供給源であった。同じく江戸期の小字にはこの流域で水田に関した名称が次のように残されている。岡村(曲っ田、九反目、みのわ田、未明田)、滝頭村(前田、下ノ田、赤田、いせん田、北田、向田、角田、辻田、濱田、まがっ田、四ツ田、三ツ田、宮田、荒田、細田)、磯子村(山田、江吾田、内田、さいかち田、曲田、神傳田、川田、前田、恵比寿田)。三殿台は時代により「三度台」とも書かれるが、この地への悪霊の侵入を防ぎ土地の豊饒を祈るための「塞土(さえど)」の音転ではなかろうか(港南区の最戸町も語源はおそらく港北区に残る「佐江戸」町と同様に多分「さえど」であったろう)。

 「禅馬」はこの地の旧名で、八幡橋にあった「東洋バブコック(東洋汽缶・バブコック日立‥‥現在量販店・外食産業のあるところ)」をこのあたりの人たちは「ゼンマ工場」と呼んでいた。「禅馬」の語源は明らかではないが、このあたりは三方が丘陵、東が海で、馬の放牧には適した地形であったためか「馬」に語源を発すると思われる地名が多い。「禅馬」もあるいは「善馬」だったかもしれぬ(他にも本「牧」はじめ、間門→馬門、間坂→馬坂、満坂→馬ン坂、蒔田→牧田などと想像される。また江戸期の小あざには馬の飼育に関するものが多い。ませ口、くね下、内くね、花立(鼻立て‥‥急坂で馬が鼻を立てる)、馬場、間渡り(馬渡り)などがそれである)。

 磯子小学校の角から今の浜マ-ケットに折れるあたりの禅馬川は、屈曲部のため柔らかい地盤が削られ岩盤が露出した上に大樹が茂り、心やすらぐ小渓流であった。岡村四丁目仲久保公園の下の「どんどん引き」は傾斜が急で水がどんどん引いて行くために名付けられたものだが(三浦半島荒崎海岸にも同名の地がある)、子供らにとって泥鰌や鮒をつかまえる「かいぼり」に絶好の場であった。風情も遊び場も消え地下に潜った禅馬川は巨大なヒュ-ム管替えられて生活用水が流れ、地上のマンホ-ルで雨水と汚水との分流まで確認できる近代都市の文化装置になった。

 

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