磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-091.ペルリ来航と江戸湾
資本主義の発展の帰結として欧米先進諸国はアジア市場への勢力拡大が急ピッチよなった。新興のアメリカはさらに捕鯨船の操業地域の拡大による薪炭・食糧・飲用水などの補給地確保が大きな課題となった。印度、印度支那、中国を勢力下に収めたイギリス・フランスは北上して日本をタ-ゲットにし,シベリアへの布石の終わったロシアはウラジオストクを基地に南下の機会を狙っていた(ちなみにウラジは「~の方へ」、ウオスト-クは「東方」を意味し、ウラジオストクはロシアの国是たる東方への勢力拡大志向を使命とした命名である)。鎖国政策を取っていた幕府はその政策を維持しつつも貿易によるメリットも全否定できず、長崎に限定して諸外国との応対をしていたが、その消極策は諸外国を大いにいらだたせるものがあった。嘉永6年突如浦賀に現れたペルリ艦隊はこれまでの諸国のような温和な交渉では日本の開国は無理と判断して力による政策をとった。
1852年米国国務省のペルリへの訓令は「日本国民はいかなる論議あるいは説得を試みようとも、それが圧倒的な力の表示によって支援されていない限り、まったく動じる見込みのないことは明らかである」というもので、司令官ペルリ個人の権力志向性格もあって最初から強圧的なものであった。(この訓令は太平洋戦争後1982年米国下院外交委員会の「日本の政策決定過程‥‥米国にとっての示唆」なる公文書中の「日本の政策を米国の利益になるように変えさせるには、米国がふだんから圧力をかけて説得することが必用である」と同工異曲である。この間に敗戦直後のマッカ-サ-語録を置いても、歴代大統領の世界観的発言を置いてもすべて奇態な整合性を示している)。
ただアメリカはせっかく日本開国の先鞭をつけながらその後に南北戦争が起こって外地での行動が鈍化せざるをえず、その間隙をついてイギリス・フランスの進出を許すことになり主導権を失った。またさらに弱体化した幕府体制、王政復古なる象徴操作に先んじ反幕府の旗幟を鮮明にしつつあった西南雄藩の台頭という国内の大分裂に乗じた英仏両国は、親幕府、反幕府それぞれの勢力のスポンサ-となって国内対立は国際的対立の代理戦争の観を呈した(先進資本主義国の賢明さとして両国の緊張は決定的対立にまではいたらず、やがて日本という共同のタ-ゲットに対して利益をシェア-しあうようになる)。
【ペルリが命名した江戸湾内の地名】
人間は自分にとって未知の土地に新しい名前を与えることで周辺と切りはなし、自分の既存の座標軸の中の特定の場所に収納する。命名は未知の対象に対する意識の上での支配である。したがってそれはしばしば侵略者側、開拓者側からの行為で先住者は新しい名前で自分の意識が拘束されざるをえない(シンガポ-ル→昭南、ソウル→京城、江戸→東京etc)
■観音崎(旗山崎)‥‥ルビコン岬(カエザルの「賽は投げられた」の故事・異常な決意を示す)
■大津湾‥‥‥‥‥‥‥サスケハナ・ベイ(ペルリ艦隊の軍艦名)
■長浦‥‥‥‥‥‥‥‥ポ-ハタン・ベイ(ペルリ艦隊の軍艦名)
■金沢入り江‥‥‥‥‥GoldsBoroughInlet(「金村入り江」とでも訳すか? 金(沢)=Golds?
■富津崎‥‥‥‥‥‥‥サラトガ・ポイント(ペルリ艦隊の軍艦名)
■諸磯‥‥‥‥‥‥‥‥マセドニアン(ペルリ艦隊の軍艦名)
■夏島‥‥‥‥‥‥‥‥ウエブスタ-島(来航当時の国務長官ダニエル・ウエブスタ-への配慮)
■猿島‥‥‥‥‥‥‥‥ペリ-島(自分の名前・ずいぶん遠慮したものである)
■小柴沖‥‥‥‥‥‥‥アメリカン・アンカレッジ(投錨地)
■本牧岬‥‥‥‥‥‥‥条約岬(トゥリ-ティ・ポイント、条約締結を祝って)
■根岸湾‥‥‥‥‥‥‥ミシシッピ・ベイ(*下記参照)
■十二天‥‥‥‥‥‥‥マンダリン・ブラフ(柑橘類のマンダリンか中国高官を意味するマンダリンが不明)
*「ミシシッピ・ベイ」について
根岸湾がなぜミシシッピ・ベイと呼ばれたかについては、水兵の一人がこのあたりの風景が故郷のミシシッピ川によく似ていると言ったためという説があるが、サスケハナ、ポ-ハタン、サラトガ、マセドニアンなど自分の指揮下の艦名が各地点の名称に組み込まれていることを考えると、一水兵の言より「軍艦ミシシッピ号」に由来するとした方が自然ではなかろうか。トン数ではサスケハナ、ポ-ハタンに劣るとは言え、最新式破裂弾砲のみを他艦の倍も備えた優秀艦で二度も来航している。またペルリが司令官として港に赴任したときアメリカから坐乗した由緒ある軍艦でもあった。ペルリとしてその名を残さないはずはないのではないか(あるいは日本で最初に死亡した部下がミシシッピ号のマストから転落した水兵であったことから、その鎮魂の意味をこめたのかも知れない)