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「川と海から」-116.埋立て前の海岸線

 

 明治期以降市域の発展につれて土地が必要になり、磯子の海は次々と埋め立てられた。敗戦後はまだ自然海面が広く残され、漁業で生計を立てる人も多く、豊富な魚介類をもたらしてくれた。また海岸一帯は海水浴場やオゾンに充ちた保養地として知られていたが、高度成長期の初期に大規模な埋立てが進み多くの企業が誘致され、JRや高速道路が貫通し、昔の面影は全くなくなった。まだ環境保護の声も大きくない時代だったので自然との調和を保ちながら都市発展を考えるにはほど遠く、かつて「丘と海」を独自性とした磯子区は日本中のどこの町とも同じような特色にない町になってしまった。埋め立ては海岸沿いの丘陵を崩してその土を使ったので、区民にとっては丘と海を同時に失ったのである。

 磯子の埋め立ては次のような段階を経て行われた。

■明治3~7年(1870~1874) 根岸堀割川掘削工事の一環として八幡橋先の河口突堤(波止場)建設

■明治17~21年(1884~1888) 県営間坂トンネルの排土でプリンスホテル入口から分水路まで10,000平方mの埋立て

■明治30年以前 禅馬ウイルコックス周辺約2000坪(詳細不明)

■明治32年~大正3年(11899~1914 )葦名金之助・安藤彦太郎の「間坂」から「浜」までの埋立て

■大正期(?) 横浜市(所管は電気局)による八幡橋周辺のの埋立て(市電埋立地)

■大正6~8年(1917~1919) 岡田庄右衛門他の出願による中原地先120,000平方mの埋立て

■大正12年(1923)後 関東大震災で崩壊した都心部の瓦礫の処理場として根岸町沿い海岸の埋立て

■大正14~15年(1925~1926) 杉田トンネルの崩壊による新道建設残土での杉田海岸の埋め立て

■昭和4年(1921~1929) 銀行家左右田五十鈴の出願により森白旗山前面4,530平方mの埋立て

■昭和初期 葦名金之助による磯子警察署付近の埋立て

■昭和15~16年(1940~1941) 政府による根岸飛行場用地の埋立て

■昭和16年(1941) 政府による杉田地先約170,000平方mの埋立て

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