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「川と海から」-003.滝頭八幡宮

 

 

 

 川の東側の所在地は現在は原町10-9だが以前は「滝頭町字原56」であった。この神社は川を隔てた西側の滝頭地区の鎮守である。現在は掘割川が町の境界となっているが、明治34年の第一次市域拡張のときの横浜市と久良岐郡の境界は掘割川とは無関係に屈曲して走り、この神社のあるところは久良岐郡屏風ケ浦村大字滝頭で、根岸刑務所のあったところは横浜市根岸町であった(だから滝頭刑務所ではなく根岸刑務所なのである)。根岸八幡神社は太閤検地までここに鎮座していたが検地の結果滝頭村に編入されてしまった。根岸村では明和3年(1766)に現在の場所に八幡神社を遷座して新たに根岸八幡神社とし、その跡地に当社が創建された。伝承によれば欽明天皇の12年に八幡川の河口に聖八幡の御尊像が着岸したとされ、根岸八幡神社に移ったあともそれが伝承されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この神輿は岡村天満宮と同じく千葉県の行徳でつくられたものだが、行徳は木場に近くて材料に恵まれ神輿職人が多数おり、また製塩地帯のためその販売に関東諸国を歩きまわる途次神輿の注文を取ってきたという。完成すると行徳から湾岸の村々へは船で運んだが、この神社のように海べりのところでは若者たちが海上で神輿を迎えてまず海中に入れ、海の中を練りながら上陸して神社に納めた。これも神仏の渡海伝承によるものであろう。

 <ご大典記念碑>

 昭和2年の昭和天皇即位を記念して全国の神社で記念碑がつくられた。台座上の球形のものは諸説があるが、ここでは港町にふさわしく横浜港のブイ(船舶の係留用の鉄製の球形の浮き)を飾ったものと思われる。潮風にさらされ今は老朽化しているが興味を引かれる。台座には当時のこのあたりの有力者やお店の名を見ることもできる。

 そのころ繁栄していた磯子花街は「磯子芸妓組合」「磯子二業組合」「株式会社磯子見番」の名で建立に参加し、葦名橋をつくった葦名金之助も磯子二業組合の組合長として名前を刻んでいる。また水運の便から客の多かった料理屋「深川」の名は当時の賑やかさを偲ばせてくれる。

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