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「川と海から」-143.後北条氏と

房総里見氏との「湾岸戦争」

 

16世紀を通して東京湾をはさんで武蔵・相模側沿岸と対岸の安房・上総沿岸とは小田原に本拠を置く後北条氏と房総里見氏との間の戦火の犠牲になった地域で、里見軍侵攻の伝承が数多く残されている。両岸ともたえずそれぞれの侵入軍の略奪・放火に怯えていた。沿岸の漁民・農民が窮余の一策としたのが「半知」「半年」で、これは農産物海産物などの年貢を北条・里見のそれぞれに半分づる平等に上納し両者から安堵してもらうという制度である。実際に残る略奪放火の伝承からすれば半知がどの程度有効だったかは疑わしい。また婦女子の略奪や負傷者の残留などのよる湾岸両地帯の混交もあったと思われる。

 横浜南部には房総里見氏の刧掠の爪痕が各所に残されているが、湾岸西側だけが被害者ではない。房総半島の東京湾側には小田原北条氏の侵略の記憶が各所に残っていよう。加害者と被害者はオセロゲ-ムのように瞬時にしてその立場が入れ替わる。湾岸戦争の記録は人類のこれまでの戦争のすべてがそうであるように双方を相対化する上位の視点から再検討されなければなるまい。ちなみに湾岸戦争の舞台の現在の東京湾は琵琶湖とほぼ同じ範囲だが、琵琶湖をめぐる歴史は「滋賀県」という単純なくくりかたで理解できるが、こちらは神奈川県・東京都・千葉県という三つの都県それぞれの(主として神奈川・千葉両県の)「主体的」郷土史で分断され、さらに被害者意識がまぶされている。遡れば房総半島は三浦一族が頼朝政権誕生以前から勢力を扶植していた地域でもあった。両地域の歴史は両地域の史家によって総合的に立体的に捉えらるべきではなかろうか。

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