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「川と海から」-135.大日本兵器㈱

富岡兵器製造所・湘南工機工場

 

 昭和11年1月に海軍航空本部から20ミリ機関銃(海軍では陸軍とちがい口径40ミリまでを機関銃と言った)および弾薬包装製造の照会を受けた浦賀船渠(ドック)株式会社はスイスのエリコン機関銃が最適という結論に達した。高速で回転する戦闘機のプロペラの間から連続して弾丸を発射する機関銃は当時エリコン社の製品しかなかったのある。この緊急要請に応えるためには海軍工廠などの官営より民間企業の方がよいと判断し、昭和11年、当時の久良岐郡金沢町に第一次1万6千坪の土地を購入(坪五十銭という)して設立されたのが浦賀船渠富岡兵器製作所だが、昭和13年に大日本兵器株式会社が創立されて浦賀船渠富岡兵器製作所を買収しすべての業務を継続した。横須賀周辺の軍需産業を考える場合に堀悌吉氏の名を無視するわけに行かない。

 氏は当時の山本五十六(連合艦隊司令長官として殉職)とともに大艦巨砲一本槍・拡張路線の海軍主流に対して空軍第一・軍縮派のため主流に容れられず不遇のまま昭和9年海軍中将で予備役となったが、当時航空本部長だった山本五十六の推輓によって昭和11年日本飛行機の社長となり軍用機生産に努力した。太平洋戦争開戦直前、当時浦賀船渠社長だった寺島健海軍中将(氏も軍縮派として追われていた)が逓信・運輸大臣として入閣したため同社社長に転じ駆逐艦や海防艦の建造にあたった。上記エリコン機関銃生産のため浦賀船渠が富岡兵器製作所を独立させ大日本兵器を設立したときも取締役となった。従って堀氏は一時期日本飛行機・浦賀船渠・大日本兵器三社の経営に当たっていたわけである。(敗戦後は公職追放、昭和34年胃ガンのため逝去した)。

 大日本兵器はその後工場用地は逐次拡張されて29万坪に及んだ。製造開始は昭和12年4月でエリコン社技術団の生産指導を2年間にわたって受け、スイス・ドイツから機械器具・治具工具を購入し素材も供給され、当時の日本で最高の設備・技術を持った兵器製作所となった。昭和14年7月より兵器製造に必要な工作機械を生産するため隣接地の「湘南工機工場」が稼働を開始した。こうして大日本兵器は兵器製造部門と工作機部門を持つ精密機械メ-カ-となった。同社の機関銃はゼロ戦に装備され優秀な性能を発揮した。最盛期の従業員は富岡兵器製作所が4098人、湘南工機製作所が1499人という記録がある。京急「能見台」駅は以前は「谷津坂」駅と言ったが、これら工場の急増した工員通勤のためにつくられた臨時駅であった。

 昭和19年3月に閣議決定された「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」によって7月以降は中学校・女学校の軍需工場への通年動員が徹底されたが、大日本兵器・湘南工機には横須賀中学、横浜三中、県立横須賀工業、市立横須賀工業(火薬蔵爆発で1名死亡)、鎌倉高女、青森中学、葛飾中学、自由学園、女子師範などの各校と近隣の高等小学校の生徒が動員されていた。富岡中学校、西富岡小学校のあたりには火薬庫があったと言われている。

 戦局の悪化につれ豊橋、東京都向島、愛知県、福島市、茨城県、戸塚区瀬谷、新潟県などに分工場を設置し、保土ケ谷区星川には珪砂採取の廃坑内に星川工場を建設操業したが、効率は低下せざるを得なかった。これら工場は設備が優れていたため敗戦後は賠償工場に指定され、優秀な機械類はすべて接収された。戦後「日平産業」と改名した後も自衛隊や米軍の兵器生産の一翼を担い、昭和31年には富岡で迫撃砲の実弾試射を警察に届け出、金沢署から見合わせを勧告されたこともある。その後全社あげて富山に移転し(日平富山)、広大な敷地はいまニュ-タウンに化して昔の面影を全く止めていない。

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