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「川と海から」-008.

根岸八幡神社と「さかき神輿」

 

 この神社の名物に「さかき神輿」がある。本体の部分に9尺四方、高さも9尺の大量のさかきを束ねてそれを派手な女子用長襦袢を着た若い衆が担ぐ。漁師など力のあるベテランが50人で担当し、交代が2組、合計150人も必要とする神輿であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 加曽、芝生、岡、掘割の四地区が宮もとを年番で勤めたが、費用は大変なもので宮番の地区が負担したが、工面できないため「一年待ってくれ」と延ばすこともできたという。毎年8月15日に行われる「海上渡御」が有名で、町内を練り歩いたあと夕方に提灯をつけて八幡神社の南から海に入り、首の深さまで沖に行く。海水で濡れたさかきは非常に重くなったが、祭りが終わったあとのさかきは村人が奪いあい、それぞれの家に持ち帰って神聖なものとして大神宮様の神棚に祀った。明治、大正、昭和の初期まで根岸地区ではさかき祭りに勝る行事はなかった。

 元禄の頃の白滝不動縁起に「大さかきを先に立てて」とあり、享和の頃には根岸村の祭りは不動尊と八幡神社と年番で行うとされていたものが明治初年から根岸八幡の恒例行事となった。近年は他の神社同様に担ぎ手がいなくなったこと、三浦半島奥から集められた大量のさかき(2間四方、200貫という)が入手困難になったことと相まって昭和29年を最後としてこの風習も見ることができなくなった。

 最後のさかき神輿は4尺四方ぐらいであった。

 発祥のいわれは不明だが、樽神輿などこの種の神輿は、かつて経済的事情があって神輿を新調できない時代に、それに代わるものとして入手しやすい身近なものを便宜的に使ったところが案外通常のもの以上に目を引き、それがさまざまな伝承(意図的にこうしたのだというような‥‥)をふくらませながら今日に及んだものかと思われる。身も蓋もない話のようだが、生活環境や自然条件のマイナスに耐え、逆にそれをプラスの伝承に転化させて一種の共同幻想として維持し続けるのは名もなき庶民の知恵と言わなければなるまい。

 

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