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「川と海から」-093.

大日本航空の南洋航路飛行艇基地あと

 

 現在の根岸中学校やプ-ルセンタ-のあるあたりから海べり一帯には昭和15年に完成した大日本航空の南洋行き飛行艇の基地があった。日米開戦必至の緊迫した空気の中で、根岸湾一帯の子供たちにとって「97式大型飛行艇」は自慢のタネであった。四つのエンジンを載せた40メ-トルの巨大な翼を広げ背をそらせた貴婦人のような艇身が、毎日目前の至近距離の海から離水し着水するのである。皇紀2597年制式採用になったため「97式」と呼ばれることは子供たちには常識であった(同じ年に採用された陸軍機には「97式重爆撃機」がある)。

 神戸の川西航空機が製作した日本最初の4発97式大艇は、1070馬力エンジン四基搭載、全備重量17トン、全長25.63メ-トル、全幅40メ-トルもある巨大艇で、航続距離が長く陸上滑走路のいらない飛行艇は第一次世界大戦の結果信託統治領となった広大な南洋諸島を移動するのに好適であった。

 昭和12年、富岡海岸に日本で初めての飛行艇専門の「横浜海軍航空隊(浜空)」が新設され、翌13年に「浜空」に同居のかたちで日本航空の前身「大日本航空」海洋部横浜支所が誕生した。浜空隊員の指導で日本最初の南方長距離航空路開設が準備されたのである。昭和14年4月に富岡から初めてサイパン経由でパラオまで飛んだが、乗員は浜空隊員と日航の混成チ-ムで、日航社員の機長の上に尉官クラスの指揮官がついていた。民間機の運行のかたちではあったが南洋諸島の軍事的偵察も兼ねていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和15年に根岸に日航専用の飛行場ができ、機材・人員が富岡から移動してきた。根岸湾をはさみ南北に巨大な飛行艇発着の基地が誕生することになった。根岸湾はまさに飛行艇の海であった。サイパンまで10時間を要しサイパンからパラオまではさらに6時間弱かかったが、燃料の搭載は12時間分だけだったので視界に頼る当時の航法では風が強かったり航路を間違えたりしたら大変であった。計画は順調に進んで第一、第三水曜にパラオ行きの定期便が出るようになり、次いでに毎週一回に増便された。飛行艇は初期には「綾波」「漣」「磯波」、ついで「叢雲」「白雲」などの固有名を持っており、ロマンチックな機名はこの付近の子供たちのあこがれの的であった。発着は海上なので陸上には巨大な箱形とド-ム状の格納庫があるだけだったが、特異な造形は周囲の景色の中で突出していた。

 昭和17年にはパラオ航路を題材にこの飛行場構内と97式大艇を使った東宝映画「南海の花束」が作られる。脚本八木隆一郎、監督阿部豊で、大日向伝・杉村春子・真木順・菅井一郎らが出演した。犠牲者を出しながら新空路開拓に執念を燃やす男、冒険精神のかたまりの飛行機野郎たちの物語りで、当時としては軍国調の色彩が薄く空と海へのパイオニア・スピリットを大いに鼓吹する佳編であった。

 太平洋戦争の開戦前からここは一切が海軍に徴用され「横須賀鎮守府第五徴傭(用)輸送機隊」となった。外務省高官を乗せて仏領インドシナへ親善訪問したこともあるが、これは開戦時の仏印侵攻に備えカムラン湾海岸線の空中撮影が目的の偽装行動であった。使用機種もそれまでのスマ-トな97大艇に代わって主翼を支える柱のない、ひとまわり巨大になった2式大艇が配備された。1530馬力エンジン四基搭載、重量24トン、全長28メ-トル、全幅38メ-トル、まさに翼のある軍艦で、離着水のときの爆音はすさまじいものであった。離水は本牧沖方面に向けて行なわれることが多かったが、着水のときは磯子・滝頭・岡村の町々の上の低空から根岸湾に進入するので、日夜屋根をかすめる巨大な鉄塊を子供たちは心づよく見あげていた。ポ-ポイズ(水上での激しい上下運動)防止のため、機首先端から飛び出した「カンザシ」という新装置、離着水時の激しい飛沫でプロペラの損傷を抑える「カツオブシ」もどこからともなく子供たちの耳に入って、そのたび日本の飛行機のすばらしさに興奮していた。電探装置やフロートを翼端に引き上げ空気抵抗を少なくする型にも驚いた。

 2式大艇は水上性能、大航続距離、速度など世界の飛行艇の常識を越えるもので敗戦までに合計169機生産されたが、戦況悪化のため川西航空機は飛行艇の生産をやめB29迎撃用戦闘機生産に切り替えた。名機「紫電」「紫電改」がこれである。

 戦後根岸の海で飛行艇を見たのは昭和20年11月の2式大艇と昭和20年9月の97式大艇の二回である。2式大艇のことは横浜航空隊の項に記載したが、97式は戦後紙幣不足になった台湾の政権のため大蔵省が急造した大量の紙幣運搬のための特命飛行で、着水の安全に配慮してここにあった97式大艇(神津号)が選ばれたのである。日の丸の代わりに緑十字マ-クを付けてはいたが既に進駐していた厚木基地の3機のグラマン戦闘機にスクランブルをかけられ追尾されるなど危険な飛行であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ根岸海岸埋地は昭和15年4月1日に鳳町と命名されたが、その頃はすでにパラオ便が発着しており、飛行艇基地だったからこそ大きく羽ばたくという意味をこめてつけられたものである。「横浜の町名」が言うように「縁起の良い好字を選んで」という理由だけでなく飛行艇基地を意識した町名であった。

 敗戦後ここは米軍に接収され「YSD(Yokohama Signal Depo)」と呼ばれる通信機材補給廠が置かれ、巨大な格納庫は倉庫に使われた。その後調達局の管理下で農林省の米麦倉庫となり、接収解除後は国際興業系の会社の鋼材置き場となった。昭和34年の根岸湾埋め立てにより取り壊され、日本石油精製の敷地の一部となっている。(葛城峻「鎮魂飛行艇の海」参照、磯子図書館)

 

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