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「川と海から」-108.磯子花街

 

 横浜市史稿風俗編には大正~昭和初期の市内の花街が多数上げられているがそのひとつが磯子花街である。16号線の「浜」から「芦名橋」南部にかけて芸者置屋や料理屋が並びOld gooddaysの名所であった。現在のマンション(ナイスア-バン磯子)のところに見番(検番とも書く)があって芸者衆の「デスパッチャ-」役を勤めた。花街には二業地と三業地の別があり、芸者置屋と料亭のみが二業地、これに待合が加わると三業地となった。

 いそごは二業地で磯子二業組合長は土木事業で名を残した葦名金之助である(別記のとうに八幡橋の滝頭八幡宮の御大典記念碑石基礎に銘版がある)。料亭は「中志満」が有名だったが現在の磯子区役所のところの海岸べりの「偕楽園」「田舎家」「雨月荘」「藤屋」が高級で、芸者衆は座敷がかかると人力車で駆けつけた。戦時中はこれら高級料亭は海軍御用となり南方へ赴任する軍人の壮行の場となった。また軍需産業の経営者と高級軍人の宴席ともなって食料不足に喘ぐ一般市民を羨望させた。

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