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「川と海から」-114.清水坂(しみんざか)

・年貢の道

 

 安政6年に横浜が開港するや江戸向けの海上輸送の多くは開港地に振り向けられた。天保13年(1842)に森公田村の廻船問屋で領主から百両の御用金上納を命じられた豪商斉藤清四郎は明治初年に横浜村へ大量の薪を出荷しているが、供給元は関、上大岡、吉原、松本、上永谷、矢部野、田中など近辺内陸の村々で、切り出された薪は馬で斉藤家まで運ばれた。斉藤家の薪以外の扱い品は不明だが、開港以前にもこれらの村々から農産物が森公田経由で江戸に送られていたことはまちがいない。ここの道標にはそのための道路改修に参加した村々の名が残っている。

 上大岡から金沢まで南北に貫く県道「笹下釜利谷道路」は歴史の古い「かなざわ道」で、保土ケ谷の「金沢横町」で東海道から分かれ、岩井原・蒔田・大岡・上大岡を経て東樹院の前を通り、打越、日下、氷取沢、能見台、釜利谷を経て金沢・六浦に通ずる幹線道路だった。関から東に折れ、丘陵を越えて森・杉田海岸に抜けるには「森道」「清水坂」などの道があった。

 「清水坂」は環状二号線で一部が消滅しているが大半が残っている。また「森道」は途中で「清水坂」につながっているが、ほぼ全部が残っている。「森道」とは読んで字のごとく関から西の方の農民たちが駄馬とともに「森の津」を目指した名前だが、森、中原、杉田、富岡方面の人々はここを「江戸道」と呼んでいた。蒔田、岩井原経由で保土ケ谷から東海道に出て江戸に赴いたのである。関から柏尾川水系の村々への往来の道は関東大震災後の横浜刑務所の開設で閉ざされ、今ではその痕跡を見ることができない。

 上大岡から関の下・笹下にかけての地域は「大岡川水系」と「かなざわ道」が強く意識されてきたため「南北の流れ」だけに目が奪われてきた。江戸期にはこの近郷農村は「森道」「清水坂」を利用して「森の津」に出る東西の流れが活発で、この「東西の道」は武蔵・相模の国境いを越え物資の移動が行われた「経済の道」であるとともに、江戸からの情報が近郷農村に流入する情報の道でもあった。「南北の道」は上記のように磯子海岸経由の道路が整備されるにつれて移動し、江戸に通ずる「東西の道」は横浜開港や鉄道輸送・陸上輸送時代の到来によって「森の津」のウエイトを低下させ、その役割を終えた。

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