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「川と海から」-070.

元町女学校跡と中島敦文学碑

 

 汐汲み坂の途中両側の元町幼稚園のあるところが戦前の「元町女学校」跡である。戦災に遭い第一高女の間借り生活をしていたが、岡村の横浜中学(現横浜高校)が敗戦で空き家になった谷津坂の大日本兵器徴用工宿舎に移転したあと岡村に移転し現在に及んでいる。元町女学校の創立者は当時の県会議長田沼太右衛門で、ミッションスクールだけの横浜で早くから日本人による女子高の設立を主張していたがいつも時期尚早として否定されていた。「女子に学問は不要」という時代であった。そこで田沼は自ら女学校の設立を決意月にここ元町に移転する。与謝野晶子・鉄幹夫妻もしばしば来校して生徒たちに講演した。ここに学校がある頃は生徒の袴の色から「むらさき女学校」と呼ばれて市民に親しまれた。

 歌手であり横浜市教育委員も勤めた故渡辺はま子女史も、音楽学校卒業後ここの音楽教師をしていたが、教師のかたわらレコ-ドに吹き込んでヒットした流行歌「忘れちゃ嫌よ」が学校教師にあるまじき劣情をそそる歌い方だと非難されて学校を追われた。女史は戦争中の軍隊慰問巡回を自分の戦争協力と考え戦後は贖罪の気持で外地の戦犯兵士救出に力を尽くした。「モンテンルパの夜は更けて」は多くの死刑囚兵士たちの心を慰めたことで知られている。

 またこの学校の卒業生には終戦時の総理大臣鈴木貫太郎大将夫人孝子女史がいる。父親が横浜税関勤務で女史は宮中に召されて女官をしており、のちの海軍大将で敗戦時の首相鈴木貫太郎に嫁した。二・二六事件では鈴木大将(侍従武官長)が反乱軍将校に撃たれたとき身を挺して「とどめ」を撃たせなかったことは有名な話である。女優原節子はここの二年生のとき映画界からスカウトされた。

 昭和8年東京帝国大学国文科を卒業した24歳の中島敦は田沼に乞われこの学校の国語教師となり、16年まで教鞭を取る。やがて宿痾の喘息・気管支カタルが昂じて教職を辞し、転地療養の目的もあって南洋庁での日本語教科書編纂のためパラオで生活したが、昭和17年に33歳の若さで世を去り多摩霊園に葬られた。漢学者だった祖父・伯父・父の薫陶により豊かな古典的教養とともにその文体は精緻巧妙を極め、独特の雅味は一読して感嘆するのみでつくづく夭折が惜しまれる。一時山下町の同潤会アパ-ト(現在「レイトンハウス横浜」のある場所)に住んでいたことがある。

 作品には「李陵」「山月記」「弟子」「名人伝」「文字禍」「木乃伊」「ツシタラの死」などの短編のほか「光と風と夢」「かめれおん日記」がある。彼の主要作品はここの教師時代に殆どが書かれている。坂の東側幼稚園の一隅に彼の文学碑があるが、昭和51年12月関係者や当時の同僚によって建てられたもので、名作「山月記」の冒頭が刻まれている。

 「隴西(ろうさい)の李徴は博学才穎(さいえい)、天宝の末年若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(じょう)に補られたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」

 また山手外人墓地には彼の作品「かめれおん日記」に「スイドモア氏の碑の手前に腰を下す」とあるところから、平成元年3月に中島敦の会・横浜ペンクラブの手によって「シドモア女史」(ボストンに日本の桜を移植したことで知られる)の墓碑の右側に次の歌碑が建てられた。

朝曇りこの墓原に吾かゐれは汽笛とよもし船行くが見ゆ 敦

(葛城峻「岡村歴史夜ばなし」参照)

 

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