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「川と海から」-069.汐汲坂

 

 フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだし塩田が山の上にあるはずがないからこの説はうなづけない。江戸の町でも富士山の見えるところは富士見坂、海の見えるところは汐見坂と呼ぶのがが普通だったが(本来は「汐見」は猟師が海を眺め魚群の有無を判断すること)、きびしい労働であった塩業のための海水汲みは江戸歌舞伎の華やかな舞台で華麗な舞踊に変身した。横浜でもこのあたりは本来「汐見坂」であったものが江戸文化の流れに乗り幻想的な「汐汲み」に転じたのではなかろうか。前記小寺篤氏も「私の素朴な推理であるが、もとはこれが『汐見坂』であったのではないか」と言っておられるが、戦後最初の磯子のニュ-タウンの名称も「汐見台」であったことを考えれば汐見の方が普通であろう。もっとも山手本通りの北側坂道はどれでも「野毛入り江」に向かっているのだから、この坂だけが特に「汐見」を占有する理由はないのだが。

 次項のように元町女学校の教師だった中島敦は「かめれおん日記」でこの坂で起こった小さなハプニングを書き残している。

「今年の正月のこと、何処かの級のクラス会で、生徒が三四人、蜜柑や煎餅を買出しに行った。学校の前は山手から降りて来る坂になってゐるのだが、その坂の中途迄、風呂敷をぶら下げて買出し係の生徒等が上がって来た時、一人の持ってゐた風呂敷が解けて、中から蜜柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ‥‥七つ、八つ、かなり急な坂とて、鮮やかな色をした蜜柑が続々ところがり出した。その生徒は思はぬ失策に、ひどく顔を赫らめ、風呂敷を結び直すのがやっとで、転がる蜜柑を追ひかけるどころではなかった。学校以外の人々の往来も相当にあるので、一寸羞づかしかったのであろう。丁度其の時坂の上に立ってゐた吉田は、之を見るや猛烈な勢で駈下り始めた。小石を蹴とばし、砂利で滑りそうになり、つんのめりそうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短躯の彼は背中を丸くして、蜜柑を追ひかけた。一度転んだが直ぐに起上り砂も払はずに又駈け出し、到頭十五六の蜜柑を悉く拾ひ上げ、坂の片側の溝に転げ落ちるのを防いだのである。生徒等も通行人も呆気にとられて立止り、彼の猛烈な勢に見とれていた。吉田は蜜柑を手に持ち、ポケットにも入れ、『みんなボヤ-ッと見とっちゃ駄目やないか』と生徒等に叱言を言ひながら、又登って来た。」

 生徒からカイロみやげというカメレオンをもらった作者は奇妙な小動物にふしぎな愛情を覚える。この飼育の話の間に同僚教師たちの言動が挿入され、人間はいつまでたっても大人にならないというシニカルな感想が楽しませてくれる。登場する「吉田」もその一人で、教師たちの給料やボ-ナスを丹念に聞き集め自分の格差を校長にねじ込んだり、中島にそそのかしたりする人物である。

 年譜によれば「かめれおん日記」の脱稿は昭和11年とある

 

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