top of page

「川と海から」-074.「大正活映」撮影所跡

 

 大正活動写真株式会社のちに大正活映画(略して大活と言った)の創立は大正9年4月20日で、資本金20万円、実質的東洋汽船財閥の総帥浅野良三(浅野総一郎の二男で天洋丸、地洋丸、春洋丸などの当時最大の豪華旅客船オ-ナ-)である。外国人乗客のためニュ-ヨ-ク封切り映画を買い込み船内で上映していたが、日本国内上映のための輸入・興行を思いつく。

 また当時の排日気運のアメリカ国内で対日感情好転のために日本紹介の映画制作も考えたのがきっかけとも言われている。古くから山下公園(一説に今のニュ-グランド・ホテル敷地内部とも言う)に個人スタジオを持つ小映画業者ベンジャミン・ブロドスキ-という白系ロシア人を後援して投資し、スタジオもそのまま継承したのがこの会社の起こりでプ-ル事務所から広場のあたり山手77番に会社と撮影所を設けた。初めはアメリカのゴ-ルドウイン映画の一手輸入を目的としたが谷崎潤一郎を文芸顧問に、ト-マス栗原を撮影総監督とし、俳優養成所を設け映画劇専門の人材を得ることから手をつけた。

 ト-マス栗原は明治18年に秦野に生まれ家業の材木商が倒産没落したため単身渡米し辛酸をなめたがロサンゼルスで映画界に入り、早川雪舟、ヘンリ-小谷らと日本風俗の紹介映画にさかんに出演した。帰国後ブロドスキ-の事業にも協力した縁で大活の制作面を担当するようになった。彼は若い俳優志望者の指導には病的な熱情を傾け、所内では「怖ろしい先生」として畏敬された。養成所の教授科目は扮装術、表情法、動作、夜会並びに古典舞踊、日本舞踊などで終了期間は3カ月。授業料は不要、食事は自弁だが期間中は宿舎を提供された。初期の日本映画がそれまでの歌舞伎役者を中心とした舞台実写の延長だったのに対して、ここでは舞台経験をまったく持たない素人から養成し出演させたたため演技はすべて栗原の思う通りに進行した。谷崎潤一郎は大正6年に雑誌「新青年」に「活動写真の現在と未来」を載せるなど当時の文学者で映画に注目した先駆者で月給250円で大活に招聘された。小田原から本牧に転居するほどの熱を入れ、脚本執筆のほか脚色したり自宅を舞台に提供したり、時には小道具の操作を手伝ったりした(谷崎は本牧からさらに山手1267番の英国人の家に移った)。山崎洋子の「横浜秘色歌留多」に登場する岬崎元一郎はこの時代の谷崎がモデルである。

 大活の作品としては「アマチュア倶楽部」「葛飾砂子」「蛇性の淫」「雛祭りの夜」などがある。また大活出身の映画人には後の監督内田吐夢、俳優岡田時彦、江川宇礼雄、渡辺篤、紅沢葉子(現平沼高校出身で岸恵子・草笛光子の先輩)、鈴木澄子などがいる。大正9年の大恐慌は親会社の東洋汽船にも及び、関係会社への投資緊縮を断行したため大活は存亡の岐路に立たされた。輸入・配給会社として延命を策すが業界の玄人筋から圧迫が多く大正11年には松竹と提携するが、14年にはこれも解除され芝園館他数館を経営する興行会社となった。大正15年12月1日ト-マス栗原逝去、42歳。(この項は田中純一郎「日本映画発達史1」ならびに丸岡澄夫「かながわシネマ風土記」他講演資料による)。

なお蛇足を加えるなら、ここで腕を上げた名カメラマン、ヘンリ-小谷は大日本映画と提携し昭和2年2月に「横浜映画撮影所」を南区中村町の根岸掘割川の山側(神奈川ドライビングスク-ル裏手)につくる。連合映画芸術家協会をつくった作家の直木三十五もこの撮影所を借り石井漠主演で「一寸法師」を撮影した。この撮影所はその後大都映画などが借りて撮影しており建物は太平洋戦争後も残っていた(丸岡澄夫氏による)。

 

[大正活映時代の人々・・・以下は内田吐夢の回想]

谷崎先生にはじめてお会いしたのは、横浜元町の大正活映のセットの中だった。それは丁度、先生の第一作「アマチュア倶楽部」の撮影中だった。ステ-ジの外から葉山三千子君のはしゃいだ声がして、ドヤドヤと四、五人の人が入ってきた。大正も九年、十年‥‥例のラッパズボンの流行った頃の古い話‥‥先生はホ-ムスパンの渋い服の腕にスネ-クウッドのステッキを軽くかけ、奥さん同伴、佐藤春夫さんも一緒だった。外の二人はどうやら今東光さんと日出海さんではなかったかと思う。私はその時は未だ撮影所の正式のメンバ-ではなく、ただなんとなくスタジオ通いをしていたが、場面変りの時など邪魔にならぬ程度に、何かと手伝いをして、自然みんなと口を利くようになっていた(中略)。その日の撮影も終り、帰りかけた私を栗原先生が呼びとめて「内田君といったネ君、さっき谷崎先生からもお許しが出たから、明日から正式に通って来給え‥‥」。天にも昇るというか、そんな気持ちで、谷崎先生に心の中で感謝した。撮影所は異人墓地の下の三角形の谷間にあった。グラス・ステ-ジがたった一棟‥‥その横の崖の茂みから冷たい水がこんこんと湧き出ていた」。

 

 この公園入口から石段を降りたところのマンションの隣に「大正活映撮影所跡」の石碑があり、こう記されている。

「この撮影所は大正九年から十二年までの三年間という短い期間ではあったが、フランス人アルフレッド・ジェラルドの煉瓦工場跡地のこの場所(元町一の七七の五)にあった。大正活映は大正九年神奈川区子安を埋め立てアサノセメントを創始した経済界の大物浅野総一郎氏の子息良三氏が創立した会社である。この映画会社は当時としては初めて映画界に財界の資本が投入されたこと、またアメリカはハリウッドで修業した栗原ト-マスを監督に招聘したこと、さらに新進作家であった谷崎潤一郎を脚本顧問として迎えたことなど近代的な映画制作を開始した画期的な企業であった。とりわけ脚本の谷崎潤一郎を慕い集まって来た多くの青年の中には後年映画界で名をなした監督の内田吐夢、二川文太郎、井上金太郎や俳優の岡田時彦、江川宇礼雄等の姿があった。会社の事情により短い年月の撮影所で終わったことは残念ではあるが、日本の映画界を目覚めさせ発展のために一石を投じた業績は広く評価されるものである。

昭和五十九年十二月一日建之

元町自治運営会・協同組合元町SS会・横浜市観光協会」

bottom of page