磯子区郷土史研究ネットワーク
「川と海から」-125.慶珊寺
この地の領主旗本豊島刑部明重の菩提寺で明重が寛永元年に母の供養のため開いた。慶珊とは母親の戒名である。豊島明重は武蔵七党の出でかつての東京都豊島区一帯を領していたが、後北条氏に滅ぼされ徳川の代に復活した。祖先の功によって江戸前期この富岡で千七百石を賜り剛直を評価され御目付役を勤めた。「武蔵風土記稿」によるとこの寺はかつてはもっと海岸寄りにあったものが次第に波に打ち崩されて現在地に移って来たという。神仏混交のころは富岡八幡宮の別当を兼ねていたため正中2年(1325)安達貞泰が八幡宮に納めた大般若経六百巻が伝来し毎年七月十六日には大般若経転読の行事が続いている。
ヘボン博士の滞在‥‥‥日本最初の英和辞典作成、ヘボン式ロ-マ字表記法作成者、医師にしてキリスト教宣教師ヘボン博士は神奈川の成仏寺に居住していたが、明治10年頃俗塵を避け十全病院の医師エリトリ・エイチ氏の家族(エリドリッチは)とともに慶珊寺に滞在していたことがある(寺には滞在を示す表札看板が保管されている)。ヘボンはこの富岡が健康に良いことを周知しただけでなく海水浴の効用を説き「潮湯治」として内外人に勧めたことで知られる。その頃の来遊客は磯子の八幡橋からここまで船で来たようである。
戦争犠牲者供養塔‥‥昭和20年6月10日の富岡駅爆撃の死傷者はひとまずこの境内に収容されたが即死者約40名の遺体もここに仮安置された。供養塔はその菩提を弔って建てられたものである。
長洲一二碑‥‥‥神奈川県知事、元横浜国大経済学部長長洲一二氏は慶珊寺境内のたたずまいをこよなく愛し、ここを墓所と定めた。平成12年初夏神奈川県庁職員有志の手によりここに「長洲一二先生追慕之碑」が建立された。「燈燈無盡」の裏面に次の文がある。(句読点は引用者が付す)。