top of page

「川と海から」-142.第三海堡の撤去・

「中の瀬」浚渫作業

 

 千葉県富津岬と三浦半島観音崎の間の水域は浦賀水道の最も狭い部分で幅7キロメ-トルしかない。ここを通過する船舶は巨大タンカ-を含め一日平均600隻といわれ、その錯綜ぶりは絶えず大事故発生の可能性をはらんでいる。しかも水道の中間には「中の瀬」という浅瀬と、その西側の「第三海堡」残骸があるため浦賀水道航路は極めて制約されたものになっている。近年のダイヤモンドグレ-ス号の中の瀬座礁原油流出事故は起こるべくして起こったといわなければならない。

 品川や神奈川の5つの「台場」は黒船の江戸侵攻に備えたものだが、大正時代に仮想敵国の軍艦が東京湾に侵入して首都を砲撃することを予想し、浦賀水道のボトルネックに三つの人口島を建設しで大口径の要塞砲を設置した。これが「海堡」で第三海堡はその中の最大の要塞島であった。完成後に関東大震災で崩壊して半ば海中に沈み、第一、第二海堡だけが千葉県富津岬沖に現存している。これらの海堡は完成したものの後の飛行機の急速な発達によって軍艦による東京攻撃よりも空襲の可能性の方が高くなったため要塞砲も無用の長物と化し、太平洋戦争中は第一、第二海堡は高射砲陣地として利用された。金沢沖から浦賀水道方向を眺めると巨大なクレ-ン船とタグボ-ト曳かれたポンツ-ン(重量物搭載のための平底船)が見えるが、これは海底に沈んでいる第三海堡の残骸引き揚げ作業である。

 第一、第二海堡は富津沖の水深5メ-トルから10メ-トルの浅瀬に構築されたが、第三海堡は水深40メ-トルの激しい潮流と波浪の場所での建設だったため明治25年に始まった工事は大正10年にようやく完成した。当時の最先端技術に伝統的石積技術や和船による運搬・投入技術を活用したもので、海底に石を積み上げ周りをコンクリ-トで固めて堤防を築き、内側に砂を埋めて圧力を加え土台が沈むのを支えた。重さ1500トンの鉄筋コンクリ-トケ-ソン13個を前面に据えたが大正6年の高波ではそのほとんどが移動したため、その後さらに35トンのコンクリ-トブロックを700個以上投入して防波堤を安定させた。地盤沈下や波浪への対策は近代土木技術史の上からも注目に値するものである。現在までに引き上げられたものには大型ケ-ソン、大型兵舎、砲台、弾薬庫、観測所その他設備物で横須賀市浦郷の国土交通省東京湾口航路事務所展示室で見学することができる。

 「中の瀬」浚渫工事は平成12年12月からはじめられたが周辺漁業との関係で年間2月から8月までの7カ月間に限られている。平成19年度の工事完了時には二つの工事現場とも水深23メ-トルとなり、これまでの「中の瀬西側」だけの大型船舶航路が東側でも通航可能となり、出入船の安全とスム-ズな海上交通が約束されている。

bottom of page