川と海から-089.横浜港シンボルタワ-
本牧埠頭D突堤の先端に白い塔があって港内からよく見えるが、昭和61年に完成した「横浜港シンボルタワ-」である。横浜港に出入りする船舶への信号所として情報管理機能とともに360度眺望可能な展望台として市民に無料開放されている。また突堤の東側は「本牧海づり公園」として釣り愛好家...
川と海から-088.ベイブリッジとは何であったか?(コ-ヒ-ブレイクのつもりで‥‥)
葛城峻「横浜の虚について」(「横浜屈辱都市論」所載)より。 「ベイブリッジ」誕生の横浜市史上の意味は、本牧埠頭と大黒埠頭を最短距離で結び輸送時間短縮や交通渋滞緩和に貢献した経済効率より、港の中心を水面を閉曲線に封じ込めて横浜を横浜たらしめてきた西欧文明への開口部を鎖し、巨大...
川と海から-087.外防波堤と二つの灯台
内防波堤の完成後も新規築港計画がつぎつぎ進み、明治後期から大正前期にかけては新港埠頭が完成した。第一次世界大戦をはさんでその利用船舶の増大、大型化という新課題をクリアすべく第三次の築港計画が立案された。しかしその間に関東大震災があり復旧と新都市計画のため港湾計画も大幅に修正...
川と海から-086.内防波堤と赤灯台
横浜港は明治20年から29年にかけてイギリス人技師パ-マ-の設計監督によって第一次築港工事が行われた(功労者パ-マ-の銅像は野毛山公園にある)。この間の明治22年には東海道線が全線開通しこれによって海上運輸も大きな刺激を受けた。また同年4月に「市町村制施行」によって横浜は「...
川と海から-085.横浜港
横浜港については言うべきことが多すぎるので省略し次のことだけにとどめる。幕末の開港条約で神奈川開港は決められたが「神奈川」とは具体的にどこを指すのか明らかでなかった。外国外交官たちはそれが「神奈川宿」であることを当然のこととしていたが、東海道幹線のこの宿場の地先の海に外国船...
川と海から-084.新山下貯木場跡
横浜港の輸入商品の一つである木材は、生産地で加工後に船積みされる昨今と違ってほとんど原木のまま海を渡り横浜に荷揚げされた。通関や販売先決定までの期間は港近辺に保管場所が必要であるが、特定の場所がないため公有水面や河川に放置されることが多かった。大正3~7年の第一次世界大戦の...
川と海から-083.野球場の変遷
関東大震災のあとの新山下埋立地には野球場もできて市民に喜ばれたこともある。前出「新山下ものがたり」の紹介する当時の新聞(横浜毎朝新報・大13.11.6)にはこういう記事がある。みだしには「根岸刑務所跡へ大運動場を設置、落成するまでは新山下の埋立地を一時借り入れ」とある。...
川と海から-082.新山下埋立て地
本牧鼻は突出した高台のため風波の直撃で地層が劣化していた上に根岸湾を回流する海水に洗われ土砂が北方に移動し、長年のあいだに「州乾(州干、秀閑とも書く)の砂嘴」がつくられていた。開港後に土地需要が急増してそれまでの埋立地でも不足になり、山手丘陵の外側十二天までの崖地下の浅瀬に...
川と海から-081.横浜氷会社・横浜アイスワ-クス跡
市営地下鉄の「元町・中華街駅」建設工事現場」は以前日冷の製氷工場があった場所だが、その隣りは明治元年に中川嘉兵衛が「横浜氷会社」をつくった場所である。岸田吟香も彼のパ-トナ-で、その日記「横浜異聞」の明治2年の部分に「元町の中川嘉兵衛さんはふるくよりこゝろやすくする人なり。...
川と海から-080.バルタ-ル・パビリオン(バリ市場)のアングル
かつてここにはフランス領事館があり、また幕末にフランス軍が駐留した場所である・昭和56年11月フランスにちなんでパリ中央市場の地下に使われていた構造物が移設された。鉄の柱にア-チ型の梁を対角線に組み合わせたもので、色は当時と同じ青緑色で塗られている。...