川と海から-069.汐汲坂
フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだからこの説はうなづけない。江戸の町でも富士山の見えるところは富士見坂、海の見えるところは汐見坂と呼ぶのがが普通だったが、本来はきびし...
川と海から-068.山手の坂
山手丘陵は大きく見れば現在の「港の見える丘公園」を屈折部として南と東に「L」状に伸びている。南側はワシン坂によって小港に下り東側は稲荷坂によって中村・蒔田平地に通じている。丘陵中心部を貫く軸が山手本通りで、この軸線から両側の平地に向かっていくつもの谷戸がありそれぞれが坂道を...
川と海から-067.ヘボン博士のこと
現在の法務省合同庁舎の前に「ヘボン邸跡」の碑があるが、アメリカ人宣教師師にして医師、慶応3年(1867)日本最初の和英辞典「和英語林集成」(ヘボン式ロ-マ字による)編纂者としてのヘボンの名はあまりにも有名である。安政6年開港直後の日本に来たヘボンは同じ宣教師のブラウンやバラ...
川と海から-066.中華街の門(牌楼)
中華街のランドマ-クはなんといってもこの町の四方の入口に置かれた中国風の大門(牌楼・ぱいろう)である。一番古いのが、中華街大通りの南口にある「善鄰門」で昭和30年(1955)に初めて作られた(中央の看板に「中華街」と書かれたことで従来の「南京町」の通称が消えた)。...
川と海から-065.ゴム印開業
いま事務用・家庭用でゴム印は珍しくないが、象牙や堅木を彫った印章になれた日本人にとってゴム印は大変珍しかった。古来の技法により印章業者の藤木節斉は明治15年(1882)ころ、居留地のケヤコ-フからゴム印製法を口うつしに教わったという。まだゴムプレス機がなかったので、ありあわ...
川と海から-064.新聞広告発祥
新聞に日本語の広告を載せたのは「日本貿易新聞」文久3年9月15日(1863.10.27)号に掲載された手品の広告だが、慶応3年1月中旬(1867).にイギリス宣教師ベ-リ-が居留地83番で発行した「万国新聞紙」はニュ-スのほかに広告欄を設け、外国商館が輸入した商品や薬品、船...
川と海から-063.レンタル・サイクルのはしり
明治10年(1877)に元町で石川孫右衛門が貸し自転車屋を始めた。これがわが国最初の貸し自転車屋だとされている。孫右衛門がある日山下町31番のフランス商館チリドル商会に行ったとき、主人のチリドルが前日到着したばかりの自転車を乗り回しているのを見た。チリドルは言う「自転車は汽...
川と海から-062.牛乳搾り場の経営開始
開港直後の居留地の外国人にとって困ったのは日常欠かせない牛乳の入手が困難だったことである。そのころの日本では牛乳は医薬品と考えられていて販売量が少なかったのである。オランダ人スネルはこれをビジネス・チャンスと考え、文久初年に前田橋際に牛乳搾り場を設け外国人に牛乳販売を始めた...
川と海から-061.前田橋とチャブ屋
「らしゃめん」が外人相手の期間契約の洋妾であるのに対して、開港地としての特殊事情から、不特定の外人相手に一夜または時間単位の私娼が続出した。これが俗に言うチャブ屋女である。チャブ屋とは本来、居留地の外人に許された山手遊歩道の近辺に設けられた13軒の休憩所のうち事(チャブ)を...
川と海から-060.大丸谷チャブ屋街
ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、ここ大...