top of page

川と海から-140.野島の巨大な地下格納庫

  • daddy99432you
  • 2010年3月30日
  • 読了時間: 3分

 野島は戦前は陸続きではなく夏島同様に金沢沖に浮ぶ小島だった。乙舳海岸の砂州が伸びて州崎村と地続きになったものである。戦後ここの山頂と北側斜面に貝塚があることがわかったが、夏島同様このあたりは古代人が住むには好適の地であった。横浜の海岸線は弥生時代以降は戦後の大規模埋め立てが行なわれる前まではほぼ変らなかったが、野島・夏島貝塚(縄文早期)の頃の海水面は現在より約10メ-トル低かったので(平均気温が現在より2、3度高かったための「縄文海進」による)それらの小島は陸続きだったのである。奇しくも現在の姿は縄文海進時代の姿を再現している。時代は飛ぶが、万延元年(1860)日本からアメリカに遣米使節が派遣されたとき、野島の漁師半次郎と鉄五郎の二人が水夫として選ばれたと記録されている。

 今は公園になり展望台がある頂上には横須賀基地や眼下の追浜横須賀航空隊防衛のための10センチ連装高角砲(海軍では高射砲と言わずに高角砲といった)二門のほか多数の高角砲・高射機関砲が据えられていた。連装高角砲は防空駆逐艦「秋月」型に装備するため設計された優秀な火器であった。今公園緑地の海べりを歩くと、野島運河の突端近くに巨大なコンクリ-トの構築物が不気味な穴を覗かせているのに驚く。これは対岸の現在の日産自動車一帯が横須賀航空隊だったとき、戦闘機を空襲から護るための地下格納庫の入口である。第二期工事としてははさらに延長計画もあった。入口は遮蔽されて今は入れないが、間口20メ-トル、奥行き150メ-トルで野島の地下中央を貫いている。横須賀海軍施設隊から分離し日吉台の連合艦隊司令部、松代地下大本営などの重要施設をつくってきたトンネル工事のエキスパ-ト「海軍第300設営隊」の手になるもので、約百機収容予定であった。昭和20年の春過ぎには米軍の相模湾上陸が予想されるため、度重なるB29の京浜地方空襲にも応戦の戦闘機を出さず温存されていたが本土決戦用にここに隠匿収容するはずだったのである。ただ完成予定が8月中旬のため実際には使用できず、収容予定の零戦・雷電・紫電改などの優秀機は敗戦とともに空しく破壊焼却された。

 地下格納庫は向い側の夏島にも幅14メ-トル、長さ150メ-トルのものがある。昭和20年6月30日付報告書によれば野島・夏島ともに12~14メ-トル幅幅で延長490メ-トルが計画されていたという。航空隊と野島の間には野島運河があるが両者を結ぶために細い運搬用の築堤が設けられていた。これは戦後撤去されたが地図によっては築堤が記載さらたままのものもある。

野島側も夏島側も戦時中の海軍直轄埋立て作業のため、戦後になって横浜市と横須賀市との間で「夏島沖埋立地帰属問題」が起こり、両市の固定資産税収入がからむため長期間の交渉が続いたが県知事の斡旋で協定が結ばれ市境が現在のように確定した。

 
 
 

Comments


カテゴリ
Recent Posts
Archive
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page