中華街を鏡に考える-011.ヘボン博士のこと
現在の法務省合同庁舎の前に「ヘボン邸跡」の碑があるが、アメリカ人宣教師師にして医師、慶応3年(1867)日本最初の和英辞典「和英語林集成」(ヘボン式ロ-マ字による)編纂者としてのヘボンの名はあまりにも有名である。安政6年開港直後の日本に来たヘボンは同じ宣教師のブラウンやバラ...
中華街を鏡に考える-010.中華街の門(牌楼)
中華街のランドマ-クはなんといってもこの町の四方の入口に置かれた中国風の大門(牌楼・ぱいろう)である。一番古いのが、中華街大通りの南口にある「善鄰門」で昭和30年に初めて作られた。当初はここだけだったので単に「牌楼」と呼ばれたが、次々と新門が誕生するにつれて「善鄰友好」にち...
中華街を鏡に考える-009-2.ひとくちに中華料理と言っても
日本人はひとくちに「中華料理」と言うが、大別すれば広東、北京、台湾、湖南、上海、四川、京蘇、華南、あるいはこれらの混合というように分けられるが、この町で圧倒的なのは広東料理店である。 少し古い資料だが、275の飲食店のうち「中華」料理店は175だが、その73にあたる128店...
中華街を鏡に考える-009.横浜の下水道
関内外国人居留地一帯には明治初年R.Hブラントンの計画により陶製下水道が敷設されていたが、明治14年(1881)から煉瓦づくりに改造する計画が三田善太郎の設計で着手された。幹線は大中小のコンクリ-トを巻いた煉瓦づくりの卵型管で、要所要所に煉瓦づくりのマンホ-ルや洗浄桝、人造...
中華街を鏡に考える-008.加賀町・薩摩町だけ残して山下町に
現在の「加賀町警察署」、バス停「薩摩町」にだけ残ったが、この中華街一帯は居留地時代には日本全国の国や町の名が採用された。歴史の古い町にある「寺町」「銀座」「鉄砲町」「鍛冶町」「呉服町」「木挽町」「伝馬町」「城山」などの名はこの歴史の薄い町にはありえない。...
中華街を鏡に考える-007.「堀」「運河」で区画された居留地
現在の私たちの目には円海山・日野を水源とする大岡川が「お三の宮」で北の大岡川、南の中村川に分流し、中村川は元町から新山下橋まで堀川と名を変え、二つの川が横浜中心部を包む三角州を形成しているように見える。しかしこれは歴史と地形の錯覚で、吉田新田建設まで大岡川は「お三の宮」が河...
中華街を鏡に考える-006.中華街の道路はなぜ斜めか?
中区の地図を見ると、ほとんどが山下公園の海岸線とJR根岸線に平行・直行の碁盤目で区画されているが、中華街のある四角形の部分が周囲と45度斜めにレイアウトされている。いったんこのブロックの中に入ってしまえばその内部は碁盤目で迷うことはないが、そこから外部に出るときに方角がわか...
中華街を鏡に考える-005.革命の父孫文と横浜
現代中国で政治的立場のちがいを越え最も崇拝されているのが孫文である。孫文の指導のもとに辛亥革命が成功し中華民国が誕生(アジアで最初の共和国である)したが、その中には早くも左右の路線の違いからの対立を含んでいた。その後の日本軍部の大陸侵攻への戦略的配慮から何回かの国共合作が行...
中華街を鏡に考える-004.「落葉帰魂」から「落地生根」へ、「白手起家」の精神
中区柏葉に中華墓地・地蔵王廟がある。かつての中国人はこの世を去ると遺体は故郷に送り還してもらうことを最大の喜びとした。生前から漆塗の立派な樫の棺をあつらえて、葬儀が終わってからは棺の遺体に石灰を満たし、毎年一回やってくる「棺船」で故郷に帰った。前述の通り出身地は圧倒的に広東...
中華街を鏡に考える-002-5.日本への中国留学生は日本をどのように見ていたか?(「わが青春の日本」)(中華街ショ-ト・ヒストリ-)
自分の顔は自分では見えない以上「他人がどう見たか」は己れを知るには絶好の教材である。しかも文化的に永年にわたって交流して来た中国の若者の目にれぞれの時代の日本がどのように写ったかは、現在の私たちに自分を日本の両方をよく自覚させてくれる。人民中国雑誌社編集の「わが青春の日本‥...