中華街を鏡に考える-022.ゴム印開業(17番、1884年・明治17年)
いま事務用・家庭用でゴム印は珍しくないが、象牙や堅木を彫った印章になれた日本人にとってゴム印は大変珍しかった。古来の技法により印章業者の藤木節斉は明治15年(1882)ころ、居留地のケヤコ-フからゴム印製法を口うつしに教わったという。まだゴムプレス機がなかったので、ありあわ...
中華街を鏡に考える-021.新聞広告発祥(83番、1867年・慶応3年)
新聞に日本語の広告を載せたのは「日本貿易新聞」文久3年9月15日(1863.10.27)号に掲載された手品の広告だが、慶応3年1月中旬(1867.2)にイギリス宣教師ベ-リ-が居留地83番で発行した「万国新聞紙」はニュ-スのほかに広告欄を設け、外国商館が輸入した商品や薬品、...
中華街を鏡に考える-019.レンタ・サイクル
明治10年(1877)に元町で石川孫右衛門が貸し自転車屋を始めた。これがわが国最初の貸し自転車屋だとされている。孫右衛門がある日山下町31番のフランス商館チリドル商会に行ったとき、主人のチリドルが前日到着したばかりの自転車を乗り回しているのを見た。チリドルは言う「自転車は汽...
中華街を鏡に考える-018.前田橋とチャブ屋
「らしゃめん」が外人相手の期間契約の洋妾であるのに対して、開港地としての特殊事情から、不特定の外人相手に一夜または時間単位の私娼が続出した。これが俗に言うチャブ屋女である。チャブ屋とは本来、居留地の外人に許された山手遊歩道の近辺に設けられた13軒の休憩所のうち食事(チャブ)...
中華街を鏡に考える-017.牛乳搾り場の経営開始(106番朱雀門東側あたり、1861年・万延2年)
開港直後の居留地の外国人にとって困ったのは日常欠かせない牛乳の入手が困難だったことである。そのころの日本では牛乳は医薬品と考えられていて販売量が少なかったのである。 オランダ人スネルはこれをビジネス・チャンスと考え、文久初年に前田橋際に牛乳搾り場を設け外国人に牛乳販売を始め...
中華街を鏡に考える-016.関帝廟
劉備・張飛とともに「三国志」の英雄として知られた関羽(関公、関帝とも言う)の生誕記念日にあたる1990年(平成2年)8月14日、積年の念願だった関帝廟が装いも新たに再建された。北京や台湾から専門の職人を招き3年がかりで完成したものである。建物全体に金箔をふんだんに使い、屋根...