川と海から-118.日本飛行機株式会社・石川島航空発動機
日本飛行機(ニッピ)は陸軍軍用機を生産していた立川飛行機株式会社の経営母体である渋沢同族会社が昭和9年に資本金200万円で杉田町と昭和町にかけ設立したものである。横賀航空隊に近いところから主として水上練習機(赤い塗料を塗っていたので通称アカトンボ)をつくっていた。敗戦まで...
川と海から-117.沖から見えるもの(2)
【磯子沖で】 ■日本超低温 ■旭紙業 ■東芝生産技術センタ- ■石川島播磨重工業 ■東京液化酸素 ■新潟鉄工所横浜工場 ■日清オイリオ横浜磯子工場 【森・中原・杉田・富岡沖で】 ■東芝横浜事業所■横浜アリ-ナ #川と海から
川と海から-116.埋立て前の海岸線
明治期以降市域の発展につれて土地が必要になり、磯子の海は次々と埋め立てられた。敗戦後はまだ自然海面が広く残され、漁業で生計を立てる人も多く、豊富な魚介類をもたらしてくれた。また海岸一帯は海水浴場やオゾンに充ちた保養地として知られていたが、高度成長期の初期に大規模な埋立てが進...
川と海から-115.旧磯子料亭街跡・偕楽園と関東大震災犠牲者の碑
現在の磯子区役所は埋立て前に浜小学校があった場所だが、その南側の海岸沿いに偕楽園・藤屋・田舎家・雨月荘という料亭が並んでいた。 その中の一番大きな料亭が偕楽園で、バスが16号線から曲がって駅前に入るあたりの「磯子アイランド」のところである。一部は海水浴場として市民に解放され...
川と海から-114.清水坂(しみんざか)・年貢の道
安政6年に横浜が開港するや江戸向けの海上輸送の多くは開港地に振り向けられた。天保13年(1842)に森公田村の廻船問屋で領主から百両の御用金上納を命じられた豪商斉藤清四郎は明治初年に横浜村へ大量の薪を出荷しているが、供給元は関、上大岡、吉原、松本、上永谷、矢部野、田中など近...
川と海から-113.汐見台周辺の遺跡群
汐見台団地は昭和30年から6年の歳月と100億円をかけ根岸湾埋立地への企業誘致に応じた企業従業員の宿舎ならびに一般市民居住地として建設された市域初期の大規模造成だが、この結果工事範囲内部の遺跡のすべてが破壊された。造成前は山林が約50%、農地44%、国有地6%で、農地のうち...
川と海から-112.ひばり御殿跡
滝頭の屋根なし市場の「魚増」の加藤和枝は「美空ひばり」となり、デビュ-した昭和24年の年収が60万円であったの25年には150万円、26年には500万円、27年には1200万円とうなぎのぼりに上がっいた。ちなみに昭和27年の大卒銀行員の初任給が月6000円のころである。旧友...
川と海から-111.山川トンネル・県営間坂トンネル
江戸期から磯子区北部と南部の海岸地域は断崖が海に迫って往来の道がなく、両地域の関係は深くなかった。 長いあいだ内陸部大岡川沿いの「金沢道」が南北の幹線道路で、今の笹下の東樹院周辺に久良岐郡役所・登記所・警察署が置かれ中心地となっていた。明治11年に磯子村の有力者山川吉左衛門...
川と海から-110.磯子の「谷戸」
柳田国男の「地名の研究」に「やと」に触れた個所がある。やや長いが引用してみよう。「扇ケ谷、世田ケ谷など、鎌倉ではヤツを谷と書くこと年久しく、しかも鎌倉は文化の一中心であったために諸国に真似をする者が出て、今は当然のように考えられているが、いわゆる谷七郷(やつしつごう)はむし...
川と海から-109葦名橋・安藤橋
明治32年から大正2年にかけて「森」から「浜」のあたりまで埋め立て工事をしたのが間坂に住んでいた土木請負業の葦名金之助である。 資金を提供したのは東京の建設業者安藤庄太郎だった。葦名・安藤の両氏は河川の改修工事もしたが二人の名は葦名橋公園に葦名橋の親柱として、また元NTT磯...