川と海から-063.レンタル・サイクルのはしり
明治10年(1877)に元町で石川孫右衛門が貸し自転車屋を始めた。これがわが国最初の貸し自転車屋だとされている。孫右衛門がある日山下町31番のフランス商館チリドル商会に行ったとき、主人のチリドルが前日到着したばかりの自転車を乗り回しているのを見た。チリドルは言う「自転車は汽...
川と海から-062.牛乳搾り場の経営開始
開港直後の居留地の外国人にとって困ったのは日常欠かせない牛乳の入手が困難だったことである。そのころの日本では牛乳は医薬品と考えられていて販売量が少なかったのである。オランダ人スネルはこれをビジネス・チャンスと考え、文久初年に前田橋際に牛乳搾り場を設け外国人に牛乳販売を始めた...
川と海から-061.前田橋とチャブ屋
「らしゃめん」が外人相手の期間契約の洋妾であるのに対して、開港地としての特殊事情から、不特定の外人相手に一夜または時間単位の私娼が続出した。これが俗に言うチャブ屋女である。チャブ屋とは本来、居留地の外人に許された山手遊歩道の近辺に設けられた13軒の休憩所のうち事(チャブ)を...
川と海から-060.大丸谷チャブ屋街
ある時期横浜の夜の雰囲気を代表した「チャブ屋」をどう表現したらよいか困惑を感ずる。「戦前まで本牧にあった外人相手のあいまい宿」というのが一般的な説明のようだが、たしかに本牧に集中していた時期もあったが、大正8年に市内各所にあった同業を本牧「原」と「小港」付近に26軒、ここ大...
川と海から-059.大丸谷震災慰霊地蔵
JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部...
川と海から-058.横浜中心部の図像学(コ-ヒ-ブレイクとして)
横浜中心部は現在の海岸通り地区の基盤たる州乾の洲や元村(元町地区)を除けば吉田勘兵衛の野毛入り江埋め立て(明暦2年・1656~寛文7年・1667)によって生まれた造成地に建てられた人工都市である。開港の安政5年・1859までの約200年間は殆どが水田と入り江だったが、居留地...
川と海から-057.横浜製鉄所から横須賀海軍工廠へ
寛永12年(1635)徳川幕府は鎖国政策の一環として五百石以上、二本以上の帆柱のある船、龍骨のある船の建造を禁止した。ペルリ・ショッにより鎖国が解かれ開国に踏み切ったとき、幕府上層部は海軍力の脆弱さを思い知らされた。西欧列強と対抗するため大型船が必要となっても日本にはそれだ...
川と海から-056.吉浜橋・西の橋
今はJR線のため昔の面影がまったくないが、このあたりで中村川は桜木町方向に折れていて、その最初の橋が吉浜橋である。万延元年に居留地を切り離して「出島」化するとき中村川を延長して「堀川」をつくったが、その方向の最初の橋が西の橋である。吉田新田一つ目の埋め立てで新しい町ができた...
川と海から-055.関内・関外、吉田橋、遊歩道の番所
現在のJRの駅名として親しまれている「関内」は開港期における攘夷派浪士の外国人襲撃を防止するための関所に由来し、この関門の内部を「関内」、外部を「関外」と言った。吉田橋関門が最も有名だが、居留地に通じるすべての橋に関門が置かれたのである。東海道から開港後の横浜村へは野毛坂を...
川と海から-054.亀の橋と地蔵坂
明治になって根岸競馬場ができると天皇はじめ政府の高官たちが多数東京からこの地に訪れるようになった。文明開化の象徴たる汽車で横浜駅(今の桜木町駅)に着き、そこから馬車を仕立ててこの橋を渡って地蔵坂を上り、競馬場に急いだ。名称のおこりはさだかでないが、この橋のたもとに「丸正亀屋...