川と海から-053.埋め地八ケ町周辺と横浜旧市内の「町名」
堀割川掘削が生んだ土砂で吉田新田一つ目の沼が埋められ「埋め地八ケ町」が誕生したがすべて縁起のよい名前がつけられた。 開港期以降の横浜中心地はどこでも町や住民の幸せを願って「佳字」が当てられた。今はない町名が多いがここに記録しておく。(傍線は現在でも...
川と海から-052.車橋と打越橋
今はなき市電の長者町線長者町5丁目から車橋の間に通じたのは昭和2年9月であった。それがさらに山元町にまで伸びたのは翌年8月である。そのために従来の狭い谷の崖を切り開き掘り下げた。この地は山手外国人居留地の地境にあたり、また打越の霊泉でも知られている。分離された人工小峡谷にか...
川と海から-051.横浜の歓楽街の変遷
横浜公園は明治9年(1876年)開園の日本最初の洋式公園で、それまでに出来ていた山手公園が外国人専用であったのに対し内外人が共同で使ったため「彼我公園」とよばれた。もと太田屋新田の一部の湿地を埋め立てたもので、開港当初はここに港崎遊廓(みよざき、のちにこうざき)があり、現在...
川と海から-050.中村川・堀川沿岸周辺の戦争遺跡
【宝生寺と空襲、大震災殉難韓国人慰霊碑】 三代前の大戦中からの住職佐伯妙智師は移住朝鮮人に対しても日本人同様一視同仁の心惇く、大正12年の関東大震災で虐殺された横浜市 内朝鮮人の慰霊碑建立に力を貸し、毎年9月1日日には歴代住職が法要を欠かさず今日に至っているし殉難韓国人慰霊...
川と海から-049.十全病院
横浜における日本人の手による近代的病院のおこりは明治元年(1868)に野毛山に置かれた「横浜軍陣病院」で、戊辰戦争で負傷した官軍 兵士治療を目的としてつくられた。明治7年(1874)に十全医院となり、三井八郎右衛門ら大商人の寄付をもとにアメリカのシモンズ医師を院長に迎えて開...
川と海から-048.吉田新田
徳川初期の開墾家吉田勘兵衛は摂津出身で、寛永年間に江戸に来て木材・石材を扱い幕府から重用され繁盛した。たまたま武蔵国久良岐郡 横浜村に来て、大岡川が運んだ土砂の堆積した入り江が干拓に向くことを思い、幕府に埋め立てを出願した。明歴2年(1656)四代将軍家綱の ころ工事を始め...
川と海から-047.堤磯右衛門の石けん工場跡
水道局万世ポンプ場脇に平成6年の南区区制施工50周年を記念して「日本最初の石鹸工場発祥の地」の記念標示板が建てられた。磯子出身の堤磯右衛門が横須賀製鉄所のフランス化学者ボエルから製法を学び苦心の末に石鹸製造に成功するが、明治6年3月(1873)に本格的生産を始める。そのとき...
川と海から-046.東橋(もと土方橋)
横浜開港にともなう急ピッチな経済発展は土工、人足などの払底を来たし港湾機能を支える膨大な沖仲仕の労働力確保は必至となった。口入れの親方たちは中村川沿岸のあちこちに「土方部屋」を作ったが、往来の便のよい中村町の東橋の後背地の丘陵下はこれら低所得者の住宅地となった。...
川と海から-045.三吉演芸場
昭和5年(1930)に草津温泉という大衆浴場の二階休憩所を義太夫、琵琶、浪花節など素人への貸席としたのが始まりで、当時は「三吉館」と呼ばれていた。昭和13年ころから大衆演劇が上演されるようになったが、戦争のため昭和18年には閉鎖を余儀なくされた。しかし幸いにも戦災を免れて昭...
川と海から-044.横浜最古のトラス鉄橋(西の橋→翁橋→浦舟水道橋)
珍しく赤く塗られたこの橋は現存する最古のピン結合プラット・トラス方式という構造の近代橋梁で、数奇な運命をたどりながら温存されている。明治中期特有の形式で、構造材のアングルの結合部分をピンで止めたもので、かつての花園橋(明治21年)、港橋(明治26年)、豊国橋(明治30年)、...