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川と海から-046.東橋(もと土方橋)

  • daddy99432you
  • 2009年12月14日
  • 読了時間: 2分

 横浜開港にともなう急ピッチな経済発展は土工、人足などの払底を来たし港湾機能を支える膨大な沖仲仕の労働力確保は必至となった。口入れの親方たちは中村川沿岸のあちこちに「土方部屋」を作ったが、往来の便のよい中村町の東橋の後背地の丘陵下はこれら低所得者の住宅地となった。

 「土方部屋」も当初の大丸坂付近からこの八幡谷戸、三吉町、松影町へと広がった。一方根岸、打越、唐沢方面から山を下って中心部に通う人たちは猿坂から東橋、車橋で中村川を越えた。川筋に居を構えた家族も生活を支えるために絹スカ-フかがりの内職をしたり、輸出産業の花形であったお茶の焙製工場(お茶場)に通った。人口の集中したこのあたりは横浜中心部とは大きく異なる雰囲気や習俗を持つようになって行った(このあたりの人情風俗については先述の山本周五郎の「季節のない町」に詳しい)。

 東橋はそのころ「土方橋」と呼ばれていたが、その名も格別に奇異な感じのものではなかった。本来「~方」とは「それぞれを担当する人びと」程度のことで「馬方」「賄方」「船方」「道具方」「勘定方」などと同じである。たまたま土木作業は身なりも汚れ低所得の人びとが多かったので卑賤の感じを与え、中・上流から忌避されてしまった。ここの土方橋もいつしかこの地中村の字のひとつ「東」をとって東橋(あずまばし)と呼ばれるようになった。

 
 
 

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