川と海から-049.十全病院
横浜における日本人の手による近代的病院のおこりは明治元年(1868)に野毛山に置かれた「横浜軍陣病院」で、戊辰戦争で負傷した官軍 兵士治療を目的としてつくられた。明治7年(1874)に十全医院となり、三井八郎右衛門ら大商人の寄付をもとにアメリカのシモンズ医師を院長に迎えて開...
川と海から-048.吉田新田
徳川初期の開墾家吉田勘兵衛は摂津出身で、寛永年間に江戸に来て木材・石材を扱い幕府から重用され繁盛した。たまたま武蔵国久良岐郡 横浜村に来て、大岡川が運んだ土砂の堆積した入り江が干拓に向くことを思い、幕府に埋め立てを出願した。明歴2年(1656)四代将軍家綱の ころ工事を始め...
川と海から-047.堤磯右衛門の石けん工場跡
水道局万世ポンプ場脇に平成6年の南区区制施工50周年を記念して「日本最初の石鹸工場発祥の地」の記念標示板が建てられた。磯子出身の堤磯右衛門が横須賀製鉄所のフランス化学者ボエルから製法を学び苦心の末に石鹸製造に成功するが、明治6年3月(1873)に本格的生産を始める。そのとき...
川と海から-046.東橋(もと土方橋)
横浜開港にともなう急ピッチな経済発展は土工、人足などの払底を来たし港湾機能を支える膨大な沖仲仕の労働力確保は必至となった。口入れの親方たちは中村川沿岸のあちこちに「土方部屋」を作ったが、往来の便のよい中村町の東橋の後背地の丘陵下はこれら低所得者の住宅地となった。...
川と海から-045.三吉演芸場
昭和5年(1930)に草津温泉という大衆浴場の二階休憩所を義太夫、琵琶、浪花節など素人への貸席としたのが始まりで、当時は「三吉館」と呼ばれていた。昭和13年ころから大衆演劇が上演されるようになったが、戦争のため昭和18年には閉鎖を余儀なくされた。しかし幸いにも戦災を免れて昭...
川と海から-044.横浜最古のトラス鉄橋(西の橋→翁橋→浦舟水道橋)
珍しく赤く塗られたこの橋は現存する最古のピン結合プラット・トラス方式という構造の近代橋梁で、数奇な運命をたどりながら温存されている。明治中期特有の形式で、構造材のアングルの結合部分をピンで止めたもので、かつての花園橋(明治21年)、港橋(明治26年)、豊国橋(明治30年)、...
川と海から-043.久良岐橋・池下橋
堀割川が中村川に出会う地点は今はT字型だが以前の堀割川は中村と直交して吉田新田に続き新吉田川に続き、富士見川を経て大岡川と連結していた。この十字型に交錯する地点はそれぞれに道路があるので橋も複雑に配置されていたが、今は久良岐橋と池下橋とが平行して並ぶだけである。久良岐橋は「...
川と海から-042.「平楽」と平子氏
鎌倉の御家人「平子氏」は磯子の真照寺あたりに館を構えて禅馬郷を直轄支配し、後北条時代の江戸攻略の頃まで横浜南部一帯を領していた。石井光太郎氏が山形県伊佐沢町で新しい系図を発見して以来、平子氏の出自を三浦党とするのが通説だが、系図はそのときどきの都合でつくられるのだからそれを...
川と海から-041.山本周五郎と「季節のない町」・中村町界隈
甲州の繭の仲買人の子として生まれた彼は家運が傾いて親とともに上京、間もなく同業者の集まる横浜に転居した。中区久保町に住み戸部小学校、のちに学区変更により西前小学校に通った。幼くして文才を示した彼は西前小学校の三年生のとき担任の先生から小説家になれと言われたことがあった。その...
川と海から-040.稲荷山遺跡と根岸台地の貝塚たち
よりよき未来を模索する手がかりたる歴史学習は、時間軸のスパンをどのように取るかで様相が一変する。横浜の「今」は開港150年の中で見るか、縄文5000年の中で見るかで手がかりに天地雲泥の差がある。開港以来の視点では世界的に類を見ない江戸時代の文化熟成を無視した黒船一辺倒の歴史...