川と海から-059.大丸谷震災慰霊地蔵
JR石川町駅の裏手から山手に食い込んだ谷戸が大丸谷で、JR線側の広い坂が大丸坂、途中から左折し反対側を上る狭い坂が土方坂である。女学生の通学路としてその名がふさわしくないため使われなくなったが、開港期以降の港湾荷役労務者や埋立工事作業者の供給・管理にあたった鈴村要蔵の人足部...
川と海から-058.横浜中心部の図像学(コ-ヒ-ブレイクとして)
横浜中心部は現在の海岸通り地区の基盤たる州乾の洲や元村(元町地区)を除けば吉田勘兵衛の野毛入り江埋め立て(明暦2年・1656~寛文7年・1667)によって生まれた造成地に建てられた人工都市である。開港の安政5年・1859までの約200年間は殆どが水田と入り江だったが、居留地...
川と海から-057.横浜製鉄所から横須賀海軍工廠へ
寛永12年(1635)徳川幕府は鎖国政策の一環として五百石以上、二本以上の帆柱のある船、龍骨のある船の建造を禁止した。ペルリ・ショッにより鎖国が解かれ開国に踏み切ったとき、幕府上層部は海軍力の脆弱さを思い知らされた。西欧列強と対抗するため大型船が必要となっても日本にはそれだ...
川と海から-056.吉浜橋・西の橋
今はJR線のため昔の面影がまったくないが、このあたりで中村川は桜木町方向に折れていて、その最初の橋が吉浜橋である。万延元年に居留地を切り離して「出島」化するとき中村川を延長して「堀川」をつくったが、その方向の最初の橋が西の橋である。吉田新田一つ目の埋め立てで新しい町ができた...
川と海から-055.関内・関外、吉田橋、遊歩道の番所
現在のJRの駅名として親しまれている「関内」は開港期における攘夷派浪士の外国人襲撃を防止するための関所に由来し、この関門の内部を「関内」、外部を「関外」と言った。吉田橋関門が最も有名だが、居留地に通じるすべての橋に関門が置かれたのである。東海道から開港後の横浜村へは野毛坂を...
川と海から-054.亀の橋と地蔵坂
明治になって根岸競馬場ができると天皇はじめ政府の高官たちが多数東京からこの地に訪れるようになった。文明開化の象徴たる汽車で横浜駅(今の桜木町駅)に着き、そこから馬車を仕立ててこの橋を渡って地蔵坂を上り、競馬場に急いだ。名称のおこりはさだかでないが、この橋のたもとに「丸正亀屋...
川と海から-053.埋め地八ケ町周辺と横浜旧市内の「町名」
堀割川掘削が生んだ土砂で吉田新田一つ目の沼が埋められ「埋め地八ケ町」が誕生したがすべて縁起のよい名前がつけられた。 開港期以降の横浜中心地はどこでも町や住民の幸せを願って「佳字」が当てられた。今はない町名が多いがここに記録しておく。(傍線は現在でも...
川と海から-052.車橋と打越橋
今はなき市電の長者町線長者町5丁目から車橋の間に通じたのは昭和2年9月であった。それがさらに山元町にまで伸びたのは翌年8月である。そのために従来の狭い谷の崖を切り開き掘り下げた。この地は山手外国人居留地の地境にあたり、また打越の霊泉でも知られている。分離された人工小峡谷にか...
川と海から-051.横浜の歓楽街の変遷
横浜公園は明治9年(1876年)開園の日本最初の洋式公園で、それまでに出来ていた山手公園が外国人専用であったのに対し内外人が共同で使ったため「彼我公園」とよばれた。もと太田屋新田の一部の湿地を埋め立てたもので、開港当初はここに港崎遊廓(みよざき、のちにこうざき)があり、現在...
川と海から-050.中村川・堀川沿岸周辺の戦争遺跡
【宝生寺と空襲、大震災殉難韓国人慰霊碑】 三代前の大戦中からの住職佐伯妙智師は移住朝鮮人に対しても日本人同様一視同仁の心惇く、大正12年の関東大震災で虐殺された横浜市 内朝鮮人の慰霊碑建立に力を貸し、毎年9月1日日には歴代住職が法要を欠かさず今日に至っているし殉難韓国人慰霊...