川と海から-079.フランス山とトワンテ山、英仏軍駐留地跡・その確執
埋立地の外国人居留地は開港からの急成長で手狭になり幕府は山手に新たな居留地拡張を認めざる得なくなった。実際低湿地の平地部より眺めはよく木々の緑もすばらしかった。北方村の農地だった丘陵も次ぎ次ぎに平らになって見慣れぬ住宅が建設された。開港3年目の文久元年(1861)に127人...
川と海から-078.山手の貝塚たち
外人墓地の最北端(最低地)で生麦事件犠牲者リチャ-ドソンの墓地から左手にあがり横浜気象台から外人墓地正門に続く坂が見尻坂(急勾配で先の人の尻ばかり目につく)で、右手に曲がり料亭「梅林」の前から管理事務所の左を上がる坂道が「貝殻坂」である。貝殻とは言うまでもなくここに貝塚があ...
川と海から-077.山手外人墓地
最近は「外人」という表現を憚って「外国人墓地」という(長崎では国際墓地と言うようである)。「外人」「異人」は横浜では長く通用し格別差別意識があったとも思われないので敢えて外人墓地とする。安政元年(1854)に二度目に来航したペルリ艦隊の水兵が戦艦ミシシッピ-のマストから転落...
川と海から-076.元町プ-ル
山手丘陵のふもと一帯の湧水は「天沼びあ酒」「打越の霊泉」「ジェラ-ルの水屋敷」などのほかプ-ルの源泉にもなった。昭和3年に横浜市連合青年団が御大典記念事業としてプ-ル建設を計画する。昭和5年6月1日にわが国最初の公認プ-ルが誕生した。4947坪の土地に長さ50メ-トル、幅2...
川と海から-075.ジェラ-ルの瓦製造所跡・水屋敷跡
ジェラ-ルがいつ日本に来たか、どういう前歴か、一切不明でいつ帰国したかも定かでない。係累も財産も共同経営者・部下もわからない。ただ居留地や山手の各所にはGERARDとかジェラ-ルとかの名と1873、1876、1878などの製造年の入った様式瓦が伝世品や発掘品としていつでも...
川と海から-074.「大正活映」撮影所跡
大正活動写真株式会社のちに大正活映画(略して大活と言った)の創立は大正9年4月20日で、資本金20万円、実質的東洋汽船財閥の総帥浅野良三(浅野総一郎の二男で天洋丸、地洋丸、春洋丸などの当時最大の豪華旅客船オ-ナ-)である。外国人乗客のためニュ-ヨ-ク封切り映画を買い込み船内...
川と海から-073.石川代官屋敷・代官坂
長屋門のある大きな屋敷は江戸時代の横浜村名主石川徳右衛門の居所である。ペルリの横浜での交渉のときには警備兵の給食などで活躍しその功により幕府から賞金を贈られた。 また明治になってからも横浜の政界、実業界で重きをなした。元町商店街からこの屋敷前を通りトンネルの上を経て北方町に...
川と海から-072.横浜の西洋家具
開港前の横浜港周辺は砂州の上に僅かの戸数の横浜村があり中央部に水神の森(現在の開港資料館付近)、突端に弁天社があった。開港に伴い水神の森の脇に貿易事務を扱う運上所、その前面に波止場がつくられ、それより西の砂地が日本人居住区、東の畑地が外国人居留地と定められた。居留地に住んで...
川と海から-071.百段階段と薬師堂あと
堀川にっかる前田橋(前田は横浜村当時の字名)のから商店街を越えて丘陵(この付近を浅間山と言った)につきあたるところの上に大震災まで弁天社がありその境内に薬師堂があった。前述の堀ノ内宝生寺の「横浜」名初出文書で寺領寄進とあるのがこの薬師である。開港以来関内の芸妓衆の信仰篤く、...
川と海から-070.元町女学校跡と中島敦文学碑
汐汲み坂の途中両側の元町幼稚園のあるところが戦前の「元町女学校」跡である。戦災に遭い第一高女の間借り生活をしていたが、岡村の横浜中学(現横浜高校)が敗戦で空き家になった谷津坂の大日本兵器徴用工宿舎に移転したあと岡村に移転し現在に及んでいる。元町女学校の創立者は当時の県会議長...