川と海から-100.ガタクリ馬車と「立場」
明治35年に宮内利七という人が駿河橋から間坂トンネルを経由して杉田まで乗合馬車の運行を初めた。明治39年に市街電車が八幡橋まで延伸されると45年にここから杉田までこの乗り合い馬車が活躍した。 現在の磯子警察前の小川ベ-カリ-のところが発着所(立場)で杉田まで往来した。ここに...
川と海から-099.東洋バブコックと信濃丸の甲板
明治40年英国のバブコック&ウイルコックスが山下町に日本総支社を置いてボイラ-の販売を始めたが修理工場が必要となり、ここにあった「禅馬ウイルコックス」を吸収して創業した。昭和27年には日立と提携し「バブコック日立」となった。現在の「ニトリ」の場所である。戦時中ここで働いた人...
川と海から-098.沖から見えるもの(2)
【磯子沖で】 ■日本超低温 ■旭紙業 ■東芝生産技術センタ- ■石川島播磨重工業 ■東京液化酸素 ■新潟鉄工所横浜工場 ■日清オイリオ横浜磯子工場 【森・中原・杉田・富岡沖で】 ■東芝横浜事業所 ■横浜アリ-ナ #川と海から
川と海から-097.根岸の旧家新井氏のおこりについて(築井戸稲荷)
新編武蔵風土記稿には「村の北にあり除地六歩宝積寺持」とある。この地の旧家新井家所蔵文書によると「先祖吉左衛門儀永正十三年七月十一日相州新井城落城のみぎり十七人にて武州久良岐郡根岸の原、築井戸と申す所に蟄居、以後右の所に先祖の宮これ有り。二代目吉右衛門寛永のころ今の海際加所(...
川と海から-095.初期の根岸湾の埋立て計画
根岸湾の埋立て計画は明治末にさかのぼる。 中央政界を縁のあった華族奥田直弘が「久良岐郡本牧十二天より根岸村、屏風ケ浦村、金沢村、富岡地先まで」335万4079坪を埋め立てて工業地帯、港湾地帯にしようという大計画で、これは根岸湾埋立て一期二期工事より大きい。日清戦争後の国威発...
川と海から-094.根岸湾の漁業
江戸時代のこの海は江戸城本丸へ御膳用の魚介類を納める役を命じられて、生麦、子安、神奈川、野毛、本牧、根岸、森が「御菜浦七ケ村」とされていた。それぞれの浦に特産品が加えられたが、例えば神奈川からは鯛、野毛からは牡蠣、森からは海鼠などがそれであった。漁民にとって操業のために位置...
川と海から-093.大日本航空の南洋航路飛行艇基地あと
現在の根岸中学校やプ-ルセンタ-のあるあたりから海べり一帯には昭和15年に完成した大日本航空の南洋行き飛行艇の基地があった。日米開戦必至の緊迫した空気の中で、根岸湾一帯の子供たちにとって「97式大型飛行艇」は自慢のタネであった。四つのエンジンを載せた40メ-トル近い巨大な翼...
川と海から-092.その他沖から見えるもの(1)
【本牧沖で】 ■大黒海づり公園 ■三菱重工横浜製作所 ■本牧海づり公園 ■新日本石油精製根岸製油所 【根岸沖で】 ■本牧市民プ-ル ■海浜公園 ■横浜磯子青果 ■電源開発磯子火力発電所 ■新日本石油精製根岸製油所 ■下水道局第二ポンプ場 ■下水道局南部下水処理場...
川と海から-091.ペルリ来航と江戸湾
資本主義の発展の帰結として欧米先進諸国はアジア市場への勢力拡大が急ピッチよなった。新興のアメリカはさらに捕鯨船の操業地域の拡大による薪炭・食糧・飲用水などの補給地確保が大きな課題となった。印度、印度支那、中国を勢力下に収めたイギリス・フランスは北上して日本をタ-ゲットにし,...
川と海から-090.本牧埠頭
近年における来航貨物船の荷役システムの合理化、輸送コスト節減のための船舶の巨大化は当初の予想をはるかに上回るものがあって、受け入れ側の対応が後手になることが多かった(輸入木材の荷姿変更による貯木施設不要化、はしけの沖取りからコンテナ化による設備ならびに労働態様の一新、旧バ-...