川と海から-029.同潤会住宅
関東大震災と昭和不況期に社会政策として市内各所に低廉な住宅ができたが、その一つが天神参道に面し現存するこの住宅である。 木造二階建、天井が低く壁の芯も竹でなく葦が入っていた。大工不足のため関西の大工が建てたので関西風二階建一棟4軒が二棟で八世帯6畳と4畳半〈横浜社会事業風土...
川と海から-028.美空ひばりが育ったところ
美空ひばりは昭和12年5月29日(1937)ここ磯子区滝頭2丁目の通称「屋根なし市場」の、滝頭小学校方向の端の魚屋「魚増」で加藤増吉の長女として生れた(昭和12年は日中戦争本格化の年、5月29日は横浜大空襲の日である)。市場は今は無くなったがこの一画や生家は今でも残っている...
川と海から-027.震災復興学校としての滝頭小学校
改築前の滝頭小学校は横浜市が全国に誇る「震災復興学校」の一つで磯子区最初の鉄筋校舎であった。大震災で市内公立小学校36のうち全焼17全壊3という被害を受けたが、市は苦しい財政の中で学校の復旧に涙ぐましい努力をした。 大正2年には就学率が97.5%に達し、大正9年には1クラス...
川と海から-026.根岸監獄
横浜開港と同時に開設された戸部牢屋敷(現在の県職員アパ-トの地)が横浜の発展につれ狭くなり、明治26年から32年にかけ堀割川沿いに新監獄を建設することになった。毎年10万円づつ5年間継続支出し敷地26,000坪(今の丸山二丁目全部)で建設が始まった。周囲を1メ-トルの土手と...
川と海から-025.伊豆庄捺染工場
大正15年伊豆出身の青木嘉六が創業したものだが、当初は現在の丸山日用品市場(旧千田市場)の丸山町40番地にあって、主としてインドや東南アジアに向け輸出用の染色をしていた。青木氏の故郷に由来して「伊豆の庄屋」が社名の起こりである。...
川と海から-024.びん工場・耐火煉瓦・捕虜収容所
坂下橋と根岸橋の間の「日産」のあるところにあったのがキリンビ-ルのびんを専門に製造していたびん工場で、その跡地に根岸の家森卓三が明治34年3月「横浜耐火煉瓦製造所」を創業した。横浜港出入の船のボイラ-用の耐火煉瓦、ガス工場のガス発生炉、製鉄所の溶鉱炉壁面などが製品で、それま...
川と海から-023.市電車庫・修理工場・友愛病院
明治37年に開業した「横浜電気鉄道」の市街電車は明治45年に路線を駿河橋から八幡橋まで延長し(八幡橋から磯子は大正14年に開通)、堀割川両岸に道路が揃った。それまでの根岸側の桜並木から滝頭側の道がメインとなって来た。 関東大震災で電車の車庫が全壊したが大正14年に新しい車庫...
川と海から-022.このあたりの鎌倉落ち武者伝説
元弘3年(1333)5月22日は北条氏最後の日で、鎌倉攻めの新田義貞軍は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷坂、巨福呂坂から、千葉貞胤軍は朝比奈口から侵攻した。鎌倉は火の海と化し北条高時はじめ名だたる武将は東勝寺で最後をとげた(北条やぐら)。鎌倉での死者は6千人と言われ今も市内...
川と海から-021.ヘルム・ドックと松山善三・高峰秀子夫妻
堀割川の水面または東岸道路から眺めると現在の磯子住宅の前の16号線道路の一部が不自然に盛り上がっているのがわかる。 ここはかつて「ヘルム・ドック」という木造船の造船所があったところで今も堀割川に向けて水門を開けている。水門を入ったところにレ-ルを乗せた斜面があり、その奥の木...
川と海から-020.砂利取り場と「砂利勝」
滝頭八幡神社の東側の磯子橋・坂下橋あたりは明治のころの「砂利取り場」のあとで、この砂利は掘割川をダルマ船で中心地に運ばれ港湾や都市の建設に重用された。横浜港の外国船が帰りの荷が少ないときには船底のバランス材としてこの砂利が使われたという。「砂利勝」といわれた安室勝五郎と「村...