川と海から-009.根岸湾保養地
風光明媚な根岸湾沿岸台地は気候温暖でオゾンに富み、絶好の保養地であった。明治大正を通じて横浜中心部の発展につれここに邸宅や別荘を構える裕福な日本人や外国商人の邸宅が進出し、特に台地南面に連なった。また海沿いには料亭や割烹旅館も増えてきた。...
川と海から-008.根岸八幡神社と「さかき神輿」
この神社の名物に「さかき神輿」がある。本体の部分に9尺四方、高さも9尺の大量のさかきを束ねてそれを派手な女子用長襦袢を着た若い衆が担ぐ。漁師など力のあるベテランが50人で担当し、交代が2組、合計150人も必要とする神輿であった。...
川と海から-007.大竹屋あと(パ-ル・レストラン)
滝頭八幡宮の向かいの八幡橋幼稚園のところに幕末明治にかけて「大竹屋」という茶店があった。ここは山手居留地から不動坂を経由する「外人遊歩道」の終点で、根岸掘割川沿いの新道(当時のメイン道路は現在の16号線ではなく川の東側の道であった)に合流する絶好の立地条件にあった。...
川と海から-006.外国人遊歩場
根岸競馬場が完成したのでコ-スの外側に移ったが中央低地部には射撃場脇から不動坂につづく「外人遊歩道」があり、山手居留地に住む外人が遠乗りを楽しむため往来した。横浜周辺の外国人遊歩範囲は安政4年の日米協約で開港場十里四方、北は多摩川下流川崎宿まで西は酒匂川までと決められ、この...
川と海から-005.根岸競馬場
文久元年(1861)、州乾弁天裏の西海岸(生糸検査場付近)を埋め立てて馬場と馬見所をつくり、幕府の役人が馬術の練習をしたり外国人が競馬会をして楽しんだりしていた。文久2年(1862)5月1日と2日に居留地外国人による初めての本格的な競馬会が開催され、居留地の新聞「ヘラルド」...
川と海から-004.旗 塚
滝頭八幡裏手に樹林に覆われた直径10メ-トル、高さ2メ-トルの円墳がある。民家の敷地内で立ち入ることができず正面からは見えないが、裏手にまわると垣根越しに見ることができる。言い伝えによれば、この塚に旗を立てて漁民の目じるしにしたことから旗塚と称した言われているが、往時はこの...
川と海から-003.滝頭八幡宮
川の東側の所在地は現在は原町10-9だが以前は「滝頭町字原56」であった。 この神社は川を隔てた滝頭地区の鎮守である。現在は掘割川が町の境界となっているが、明治34年の第一次市域拡張のときの横浜市と久良岐郡の境界は掘割川とは無関係に屈曲して走り、この神社のあるところは久良岐...
川と海から-002.八幡橋の親柱
市内河川に現存する橋の多くは関東大震災後の復旧事業として建設されたもので、復興局の執行分37橋、横浜市の執行分41橋であった。短期間に集中工事をするため構造は数種類に限定されたが、外観にはさまざまな意匠が採り入れられて都市景観を豊かにした。...
川と海から-001.堀割川由来
南区の駿河橋(今は池下橋・久良岐橋)から八幡橋の先まで2キロメ-トル余りの水路が「根岸堀割川」で、明治3年に神奈川県知事井関盛艮(もりとめ)が自費工事請負い希望者を募集し、吉田勘兵衛九代目の子孫吉田家の当主が応募して明治7年に完成させた。今の県警パトカ-基地の裏山と対岸の自...
川と海から 一本の鉛筆
松山善三 詞 佐藤 勝 曲 あなたに聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい 一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く あなたに愛を送りたい あなたに夢を送りたい...