川と海から-092.その他沖から見えるもの(1)
【本牧沖で】 ■大黒海づり公園 ■三菱重工横浜製作所 ■本牧海づり公園 ■新日本石油精製根岸製油所 【根岸沖で】 ■本牧市民プ-ル ■海浜公園 ■横浜磯子青果 ■電源開発磯子火力発電所 ■新日本石油精製根岸製油所 ■下水道局第二ポンプ場 ■下水道局南部下水処理場...
川と海から-091.ペルリ来航と江戸湾
資本主義の発展の帰結として欧米先進諸国はアジア市場への勢力拡大が急ピッチよなった。新興のアメリカはさらに捕鯨船の操業地域の拡大による薪炭・食糧・飲用水などの補給地確保が大きな課題となった。印度、印度支那、中国を勢力下に収めたイギリス・フランスは北上して日本をタ-ゲットにし,...
川と海から-090.本牧埠頭
近年における来航貨物船の荷役システムの合理化、輸送コスト節減のための船舶の巨大化は当初の予想をはるかに上回るものがあって、受け入れ側の対応が後手になることが多かった(輸入木材の荷姿変更による貯木施設不要化、はしけの沖取りからコンテナ化による設備ならびに労働態様の一新、旧バ-...
川と海から-089.横浜港シンボルタワ-
本牧埠頭D突堤の先端に白い塔があって港内からよく見えるが、昭和61年に完成した「横浜港シンボルタワ-」である。横浜港に出入りする船舶への信号所として情報管理機能とともに360度眺望可能な展望台として市民に無料開放されている。また突堤の東側は「本牧海づり公園」として釣り愛好家...
川と海から-088.ベイブリッジとは何であったか?(コ-ヒ-ブレイクのつもりで‥‥)
葛城峻「横浜の虚について」(「横浜屈辱都市論」所載)より。 「ベイブリッジ」誕生の横浜市史上の意味は、本牧埠頭と大黒埠頭を最短距離で結び輸送時間短縮や交通渋滞緩和に貢献した経済効率より、港の中心を水面を閉曲線に封じ込めて横浜を横浜たらしめてきた西欧文明への開口部を鎖し、巨大...
川と海から-087.外防波堤と二つの灯台
内防波堤の完成後も新規築港計画がつぎつぎ進み、明治後期から大正前期にかけては新港埠頭が完成した。第一次世界大戦をはさんでその利用船舶の増大、大型化という新課題をクリアすべく第三次の築港計画が立案された。しかしその間に関東大震災があり復旧と新都市計画のため港湾計画も大幅に修正...
川と海から-086.内防波堤と赤灯台
横浜港は明治20年から29年にかけてイギリス人技師パ-マ-の設計監督によって第一次築港工事が行われた(功労者パ-マ-の銅像は野毛山公園にある)。この間の明治22年には東海道線が全線開通しこれによって海上運輸も大きな刺激を受けた。また同年4月に「市町村制施行」によって横浜は「...
川と海から-085.横浜港
横浜港については言うべきことが多すぎるので省略し次のことだけにとどめる。幕末の開港条約で神奈川開港は決められたが「神奈川」とは具体的にどこを指すのか明らかでなかった。外国外交官たちはそれが「神奈川宿」であることを当然のこととしていたが、東海道幹線のこの宿場の地先の海に外国船...
川と海から-084.新山下貯木場跡
横浜港の輸入商品の一つである木材は、生産地で加工後に船積みされる昨今と違ってほとんど原木のまま海を渡り横浜に荷揚げされた。通関や販売先決定までの期間は港近辺に保管場所が必要であるが、特定の場所がないため公有水面や河川に放置されることが多かった。大正3~7年の第一次世界大戦の...
川と海から-083.野球場の変遷
関東大震災のあとの新山下埋立地には野球場もできて市民に喜ばれたこともある。前出「新山下ものがたり」の紹介する当時の新聞(横浜毎朝新報・大13.11.6)にはこういう記事がある。みだしには「根岸刑務所跡へ大運動場を設置、落成するまでは新山下の埋立地を一時借り入れ」とある。...