川と海から-072.横浜の西洋家具
開港前の横浜港周辺は砂州の上に僅かの戸数の横浜村があり中央部に水神の森(現在の開港資料館付近)、突端に弁天社があった。開港に伴い水神の森の脇に貿易事務を扱う運上所、その前面に波止場がつくられ、それより西の砂地が日本人居住区、東の畑地が外国人居留地と定められた。居留地に住んで...
川と海から-071.百段階段と薬師堂あと
堀川にっかる前田橋(前田は横浜村当時の字名)のから商店街を越えて丘陵(この付近を浅間山と言った)につきあたるところの上に大震災まで弁天社がありその境内に薬師堂があった。前述の堀ノ内宝生寺の「横浜」名初出文書で寺領寄進とあるのがこの薬師である。開港以来関内の芸妓衆の信仰篤く、...
川と海から-070.元町女学校跡と中島敦文学碑
汐汲み坂の途中両側の元町幼稚園のあるところが戦前の「元町女学校」跡である。戦災に遭い第一高女の間借り生活をしていたが、岡村の横浜中学(現横浜高校)が敗戦で空き家になった谷津坂の大日本兵器徴用工宿舎に移転したあと岡村に移転し現在に及んでいる。元町女学校の創立者は当時の県会議長...
川と海から-069.汐汲坂
フェリス女学院の脇から商店街にくだる坂が汐汲み坂である。干ばつに悩む丘陵の田畑に塩水を運んだことによるとの説もあるが、農作物は塩分を嫌うはずだからこの説はうなづけない。江戸の町でも富士山の見えるところは富士見坂、海の見えるところは汐見坂と呼ぶのがが普通だったが、本来はきびし...
川と海から-068.山手の坂
山手丘陵は大きく見れば現在の「港の見える丘公園」を屈折部として南と東に「L」状に伸びている。南側はワシン坂によって小港に下り東側は稲荷坂によって中村・蒔田平地に通じている。丘陵中心部を貫く軸が山手本通りで、この軸線から両側の平地に向かっていくつもの谷戸がありそれぞれが坂道を...
川と海から-067.ヘボン博士のこと
現在の法務省合同庁舎の前に「ヘボン邸跡」の碑があるが、アメリカ人宣教師師にして医師、慶応3年(1867)日本最初の和英辞典「和英語林集成」(ヘボン式ロ-マ字による)編纂者としてのヘボンの名はあまりにも有名である。安政6年開港直後の日本に来たヘボンは同じ宣教師のブラウンやバラ...
川と海から-066.中華街の門(牌楼)
中華街のランドマ-クはなんといってもこの町の四方の入口に置かれた中国風の大門(牌楼・ぱいろう)である。一番古いのが、中華街大通りの南口にある「善鄰門」で昭和30年(1955)に初めて作られた(中央の看板に「中華街」と書かれたことで従来の「南京町」の通称が消えた)。...
川と海から-065.ゴム印開業
いま事務用・家庭用でゴム印は珍しくないが、象牙や堅木を彫った印章になれた日本人にとってゴム印は大変珍しかった。古来の技法により印章業者の藤木節斉は明治15年(1882)ころ、居留地のケヤコ-フからゴム印製法を口うつしに教わったという。まだゴムプレス機がなかったので、ありあわ...
川と海から-064.新聞広告発祥
新聞に日本語の広告を載せたのは「日本貿易新聞」文久3年9月15日(1863.10.27)号に掲載された手品の広告だが、慶応3年1月中旬(1867).にイギリス宣教師ベ-リ-が居留地83番で発行した「万国新聞紙」はニュ-スのほかに広告欄を設け、外国商館が輸入した商品や薬品、船...
川と海から-063.レンタル・サイクルのはしり
明治10年(1877)に元町で石川孫右衛門が貸し自転車屋を始めた。これがわが国最初の貸し自転車屋だとされている。孫右衛門がある日山下町31番のフランス商館チリドル商会に行ったとき、主人のチリドルが前日到着したばかりの自転車を乗り回しているのを見た。チリドルは言う「自転車は汽...