山の手散策-043.横浜氷会社・横浜アイスワ-クス跡
市営地下鉄の「元町・中華街駅」建設工事現場」は以前日冷の製氷工場があった場所だが、その隣りは明治元年に中川嘉兵衛が「横浜氷会社」をつくった場所である。岸田吟香も彼のパ-トナ-で、その日記「横浜異聞」の明治2年の部分に 「元町の中川嘉兵衛さんはふるくよりこゝろやすくする人なり...
山の手散策-042.バルタ-ル・パビリオン(バリ市場)のアングル
かつてここにはフランス領事館があり、また幕末にフランス軍が駐留した場所である・昭和56年11月フランスにちなんでパリ中央市場の地下に使われていた構造物が移設された。鉄の柱にア-チ型の梁を対角線に組み合わせたもので、色は当時と同じ青緑色で塗られている。設計者のバルタ-ルは19...
山の手散策-040.フランス山とトワンテ山、英仏軍駐留地跡・その確執
埋立地の外国人居留地は開港からの急成長で手狭になり幕府は山手に新たな居留地拡張を認めざる得なくなった。実際低湿地の平地部より眺めはよく木々の緑もすばらしかった。北方村の農地だった丘陵も次ぎ次ぎに平らになって見慣れぬ住宅が建設された。開港3年目の文久元年(1861)に127人...
山の手散策-033.ウチキパン
万延元年(1860)に内海兵吉という人がフランス軍艦のコックからパンづくりの手ほどきを受けて横浜で焼き始めたのが日本人の最初と言われている。翌文久元年(1861)、居留地在住のアメリカ人W.グッドマンが横浜で始めて「ファミリ-・ベ-カ-」というパン屋を開業し欧州から小麦粉を...
山の手散策-032.山手貝塚
外人墓地の最北端(最低地)で生麦事件犠牲者リチャ-ドソンの墓地から左手にあがり横浜気象台から外人墓地正門に続く坂が見尻坂(急勾配で先の人の尻ばかり目につく)で、右手に曲がり料亭「梅林」の前から管理事務所の左を上がる坂道が「貝殻坂」である。...
山の手散策-031.山手外人墓地
最近は「外人」という表現を憚って「外国人墓地」という(長崎では国際墓地と言うようである)。「外人」「異人」は横浜では長く通用し格別差別意識があったとも思われないので敢えて外人墓地とする。 安政元年(1854)に二度目に来航したペルリ艦隊の水兵が戦艦ミシシッピ-のマストから転...
山の手散策-024.元町プ-ル
山手丘陵のふもと一帯の湧水は「天沼びあ酒」「打越の霊泉」「ジェラ-ルの水屋敷」などのほかプ-ルの源泉にもなった。昭和3年に横浜市連合青年団が御大典記念事業としてプ-ル建設を計画する。昭和5年6月1日にわが国最初の公認プ-ルが誕生した。4947坪の土地に長さ50メ-トル、幅2...
山の手散策-023.西洋塗装発祥地の碑
特にこの場所と特定できないにもかかわらず「横浜もののはじめ」として建立された碑がこの塗装業碑と、もうひとつ谷戸坂にあるクリ-ニング発祥記念碑である。 碑文にいわく。 「本邦における近代塗装業の由来を尋ぬるに嘉永六年正月米艦来航に際し米国使節接見のため神奈川宿に交易談判場を急...
山の手散策-022.ジェラ-ルの瓦製造所跡・水屋敷跡
ジェラ-ルがいつ日本に来たか、どういう前歴か、一切不明でいつ帰国したかも定かでない。係累も財産も共同経営者・部下もわからない。ただ居留地や山手の各所にはGERARDとかジェラ-ルとかの名と1873、1876、1878などの製造年の入った様式瓦が伝世品や発掘品としていつでも...
山の手散策-021.「大正活映」撮影所跡
大正活動写真株式会社のちに大正活映画(略して大活と言った)の創立は大正9年4月20日で、資本金20万円、実質的東洋汽船財閥の総帥浅野良三(浅野総一郎の二男で天洋丸、地洋丸、春洋丸などの当時最大の豪華旅客船オ-ナ-)である。外国人乗客のためニュ-ヨ-ク封切り映画を買い込み船内...